『砂の器』漬けの週末

砂の器

一週間の仕事を終えたとき、「よし、週末は松本清張の『砂の器』を読むぞ」と私にしては珍しく気合いを入れた。諸事に追われ何かと忙しかったことの反動かもしれない。
明日18日から、TBS系にて中居正広主演で「砂の器」がリメイクドラマ化される。昨年このドラマ化の話を知って以来書友の皆さんから原作や映画の話をちらほらとうかがって興味を持っていたが、いざ原作を探すと、新刊書店にも古本屋にも見あたらない。
ようやく出会ったのは、年末年始の帰省から帰京する途中乗り換えのため待ち合わせた仙台駅構内の書店であった。今度のドラマ化に合わせて12月上旬に改版した新潮文庫版(上巻*1・下巻*2)である。新幹線で読むわけでもないのに、それでなくとも帰京の荷物が増えるのに、つい買ってしまう。
上下二冊合わせて800ページを超える大冊だが、読み始めて上巻の半分を過ぎるあたりから圧倒的なドライブ感が加わり、一晩で上巻、翌日午前中で下巻を読み終えた。同じ姿勢で熱中して読んでいたせいか脳が酸欠状態に近くなったうえに肩が凝って、夜中猛烈な頭痛が襲ってきた。
この間原作(もしくは映画)のポイントはいろいろなところで目にしてある程度は知っていた。今度のドラマではそのポイントとなる事柄にはノータッチであるという批判もあるようだ。
原作を読んでみると、たしかにこの点を省くと、松本清張が『砂の器』という小説のなかで意図した“社会性”が失せる。それほど『砂の器』という小説は、戦前・戦中、そして戦後昭和30年代までの日本という空間と時間にぴたりと貼りついているという印象だった。
物語のポイントは別にしても、刑事が捜査をするときに電車・都電・バスなどを使ったり、出張には夜行列車に乗る。また帰宅すると小学生の息子を連れて銭湯に行き汗を流す。そんな細かな風俗描写までもが時代の空気から切り離せず面白い。ミステリとしては、物語の各所で複雑巧妙に張られた伏線が最後になって一気に収束する流れはお見事というほかない。
また、原作を読むと、今度のドラマ(そして映画)で力点が置かれているとおぼしき“人間の宿命”といった点は深く掘り下げられていない(つまり小説の売りではない)ことがわかる。むしろいかにも“社会派推理小説”らしく、自分の頭と足で執念深くこつこつと捜査を重ねて犯人を追いつめる刑事が主人公であるし、また意外に殺人トリックも独創的なのではあるまいか。
逆にこのことは、21世紀において「砂の器」というドラマをリメイクする場合、主要なポイントを現代風に置き換えても可能かもしれないということである。かえって時代性の貼りついた「宿命」を現代風の「宿命」に換えたほうが成功するかもしれない。実際中居の演じる「天才ピアニスト」は原作とは役柄が異なるし、換えることによって上記した独創的な殺人トリックはそのままではたぶん使えなくなるだろう。
前述のように、「宿命」というテーマよりも、また犯人よりも、執拗に捜査を重ねる刑事が原作では主人公となる。だから今度のドラマでこの役に渡辺謙が起用されたというのは大きいのではないか。彼を慕う若い刑事吉村役に永井大というのもふさわしい。
昨年一度近所のレンタルビデオショップから映画の『砂の器』を借りてきたのだが、結局見る時間がとれないまま返却してしまった。原作を読み終え、明日夜のドラマの前に映画を見ておこうとレンタルショップに急いだところ、残念、在庫の二本とも貸出中だった。仕方がない。
今回の結論。松本清張は今でもとてつもなく面白い。

*1:ISBN4101109249

*2:ISBN4101109257