漂流する精神

あたまの漂流

中野美代子さんのエッセイ集『あたまの漂流』*1岩波書店)を読み終えた。
中野さんの本を読んだのは久しぶりだ。『肉麻図譜』*2(作品社、感想は2002/1/5条)以来二年ぶりか。昨年古稀を迎えられた中野さんだが、古今東西を問わず好奇心旺盛にイメージの収集にいそしみ、知的刺激に富んだ文章をわたしたちに提供してくれるのは相変わらず。
タイトルに「漂流」とある。本書のなかでは、南海を漂流した人びとの漂流譚・漂着譚はもちろんのこと、漂流とは必ずしも言いきれないトマス・クックらの航海にまつわるエピソード、あるいはロビンソン・クルーソーをめぐる話(これらはいわば「冒険譚」でもある)などが展開される。
しかもそればかりではない。海の漂流だけでなく、陸の漂流・冒険譚(たとえば玄奘三蔵)もある。人の漂流だけでなく、モノの漂流にも関心が広がる(たとえば清代の円明園の噴水に使われた動物の頭像など)。
そもそも本書はこうした漂流譚を広く渉猟するにとどまらない。何せ「あたまの漂流」である。少しでも頭にひっかかった疑問があれば、その謎を解決するための努力は惜しまず、文献から文献へと飛び回る。それでいながら無理に結論を求めようとしない。拙速に結論をみちびかず、しばらく問いを「漂流」させておく。
ある関心から別の関心へとわが頭が飛び移っているときに、ふと過去に漂流させていた問題がひっかかることもある。肩の力の抜けた、自由闊達な精神のたゆたい。矛盾するような表現だが、中野さんの漂流する精神はますます鋭さをましている。
中野さんの本を読んでいると、過去にわずかながらアンテナが反応したままになっていた本はおろか、これまでほとんど関心のなかったような分野の本まで読みたくなってきてしまうから不思議である。
読みたくなった本その1、ディディエ・デナンクス『カニバル(食人種)』(邦訳青土社)、その2、ジャン=ジャック・フィシュテル『私家版』(邦訳創元推理文庫)。
「「絶海の孤島」のアーティストたち」という一文では、夜警の仕事のかたわらガレージのなかにきらびやかなキリストの玉座をつくりつづけたというジェイムズ・ハンプトンと、かの郵便屋シュヴァル、そしてヘンリー・ダーガーがひとつの線で結ばれる。
続く「「国宝」の条件」では、前述の円明園にあった動物のブロンズ頭部をめぐる中国当局と「神秘人」(“謎の男”の謂いだが、この中国語表現が何とも「神秘」的)との間の熾烈をきわめたオークションの様子が楽しげに紹介される。
疑問をもつこと、それについて調べること、『あたまの漂流』には、そんな調べものをすることの愉しさが横溢している。

*1:ISBN4000220187

*2:ISBN4878937580