さっそく今年新たに出会った作家

都に夜のある如く

珍しいことに、この年末年始で帰省したとき、実家に持っていった(実際は宅配便で他の荷物と一緒に送った)本をあらかた消化することができた。読書途中の本含め単行本三冊、文庫本二冊、新書一冊の計六冊。このうち一冊は現在もなお読書中だが、実に六冊読み終えたことになる。これほど順調に携えた本を消化したのははじめてなのではあるまいか。
今回読み終えたのは、高見順『都に夜のある如く』*1(文春文庫)である。どういうきっかけかは忘れたが、去年あたりから古本屋で高見順の文庫本を見つけるととりあえず買っておくようになり、それを幾たびか繰り返しているうち読もうという気持ちも高まってきたのである。本作品が初めて読む高見作品ということになる。
本書は七話から成るので連作短篇という言い方もできるが、実際は同じ主人公・登場人物の間の恋愛劇で起承転結が展開されるから、七章から成る長篇と言うべきだろう。発表は昭和29年から30年にかけて。自身をモデルにした物語ということで、時期設定は昭和二十年代ということになる。
物語は友人同士の中年男(おそらく既婚)二人がそれぞれに経験する恋愛(つまり不倫)譚で、いわゆる「情痴小説」の系譜に位置する。
二人の中年男のこんな会話のシーンから物語が始まる。

「女をだますのは、簡単なのだが、だましたあとの始末が、簡単にいかない」
「お互いに、それで、困る」
二人は、女遊びをしたいのは山々なのだが、別れ話の泥沼は御免蒙りたい、後腐れなく綺麗に別れられるにはどうしたらいいのかなどということばかり考えている。そのうち画廊を経営する主人公の友人には娘のような若い恋人ができる。いっぽう文士である主人公は待合を経営する未亡人に恋心を抱き、のちに結ばれる。
物語はこの二人がそれぞれ相手の女性に愛想づかしをされることで幕を閉じるのだが、読んでいると主人公の身勝手さが目につく。主人公は、相手に子供ができたようだと告げられると自分でもわかる醜い声で「そうか」と返事するしかすべがない。
相手は結局亡夫の実家に行き、そこで子供をおろしてしまう。そのことを告げられると、今度はこうなる。
「そうか」
わざと沈痛に――という訳でもなかったが、その私の心の片隅で、ウェル・ダン(よくやった)と叫ぶ声があった。
もうひどくて情けない。こんな男だから捨てられるのは当たり前と思ってしまう。珍しく女性側に感情移入しながら物語を読み終えた。
物語はこの情けない中年男の情痴譚だけならば、途中で挫折しまっただろう。最後まで面白く読み通せた大きな原因は、物語の背景にある都市東京の描写である。
新橋や柳橋の花街の華やかさ、銀座・上野の雑踏、月島や日本橋・両国の下町風情、麻布の閑雅なたたずまい、そして隅田川。物語の登場人物たちを歩かせたりバスに乗車させたりしながら、東京の町並をこれでもかと細かく描き出す。
実のところ高見順は中年男の情痴小説というスタイルを借りて、都市東京を主人公に書いたのがこの長篇なのではないか、そう勘ぐりたくなるほどだ。このあたりはすでに文庫版解説の巖谷大四さんが鋭く喝破している。
言うなれば、失われゆくものに対する愛惜の情をこめた東京風物誌とも言うべき作品で、二人の中年男は、その案内役ともいうべきものだが、…
「風物詩」ならぬ「風物誌」である。この長篇に限らず他の高見作品もこうした色合いを持っているのならば、さらに追いかけてゆく価値のある作家だと感じた。