古本道ははてしなくつづく

メインサイト“本読みの快楽”を立ち上げてもうすぐ5年になる。そこを介して出会ったたくさんの書友の皆さんから刺激を受け、自分の関心もかなり広がった。
私は興味を持った作家については、まず著作(主に文庫本)を集めるというところから入る。爆発的にその作家ばかり熱中して読み続けることをせず、読み惜しみをしながら折に触れて古本屋を訪れ、その作家の著作を悉皆集めようとする。
探求本がたくさんあるうちは、張り合いがあって古本屋めぐりはことのほか楽しい。見つけたときの嬉しさは何者にもかえがたい。
けれども逆に、少しずつ集まってくるにつれて不安感も増してくる。「これを集め終えたら、古本屋めぐりも楽しくなくなるのかなあ」と、淋しい気持ちに心の中が支配されるようになる。古本屋めぐりのモチベーションが低下することを恐れるのである。
集まってくるにつれて目指す本と出会う確率も低くなるから、徒労感に包まれることが多くなる。
もちろん探す本がなくとも、古本屋にぶらりと入って漫然と棚を眺め、目に入った書名・著者名に惹かれて棚から取り出してパラパラと本をめくり、それが決定的な出会いとなるという場合もある。古本屋めぐりの醍醐味のひとつだろう。
目指す本があるとそればかりを集中して探すことになりがちだから、もしかすると自分の好みに合致するかもしれない本との出会いを逃しているかもしれないのである。
とはいえ探求本があれば、古本屋めぐりのモチベーションは高まり、書棚を眺める集中力も研ぎ澄まされる。本を見つける嬉しさに反比例して、満たされてしまうことの不安感、淋しさが増すという矛盾。
ところが「古本道」とはよくしたもので、探求書を見つけるために古本屋を訪ね歩き、運良く見つけた古本を嬉々として読んでいるうちに、新たな関心が芽ばえてくるのである。つまり新しく集めたいと思わせる作家が出現するわけだ。
かくして、ふたたび一から古本屋めぐりが始まる。つい何日か前まで探求本が見つからずにうつろな目を這わせていた古本屋の棚のなかに、実は新たに関心を持った作家の本がずっと前からひそんでいたことに気づき、また嬉しくなる。
「やっと僕を見つけてくれましたね」
古本からそんなつぶやきが聞こえたような気がした。
ここ数年、そんな繰り返しで時間が過ぎていった。はたして「もう探すべき作家がいない、探すべき本がない」という終着点はあるのだろうか。