松本清張の密やかなる愉しみ

文壇うたかた物語

大村彦次郎さんの『文壇うたかた物語』*1筑摩書房)の面白さにまいってしまった。
近著『文士の生きかた』*2ちくま新書、感想は10/27条)を読み、大村さんの他の著作に興味を持ちだしたという素地はあった。しかしながらその令名は聞いていてもすでに出てから八年も経っている本だし、新刊書店でもなかなか出会わない。
旅先のブックオフで偶然出会ったのがラッキーだったと思わずにはおれない。本を開いて文字面を一瞬見ただけで、これは面白い本であるということを直感した。もちろんその期待は裏切られなかった。
本書は著者大村さんの編集者人生を縦糸にしている。
あまり真面目でなかったらしい学生時代から、講談社入社後『婦人倶楽部』を経て、『小説現代』の創刊からそのスタッフに加わり、その編集長を歴任したあと『群像』編集長へ転出するまでの時期に関わった作家、編集者たちの「うたかた」のごとき喜怒哀楽が活写されている。
小説現代』という中間小説誌がおもな舞台となっているので、そうした分野を主戦場にしていた作家、そこをステップに別の分野で活躍するようになった作家が数多く登場する。
巻末の「登場作家索引」を見ると、野坂昭如松本清張吉行淳之介を筆頭に、池波正太郎五木寛之色川武大長部日出雄梶山季之川上宗薫菊村到司馬遼太郎柴田錬三郎立原正秋永井龍男山口瞳あたりの登場頻度が高い。
上にあげたような、現在でも多くのファンがいる作家だけでなく、いまは読まれなくなった作家や、「一発屋」的な忘れられた作家にも目配りが行きとどく。
その時々の文壇の力関係や編集者の気まぐれが新人作家(もしくは作家希望者)の運不運を決めてしまう場合があって、これは文壇だけにも限らないだろうが、残酷なことよと思ってしまう。

編集者は新人の原稿を前にして、畏怖しなければならない。怠惰や無理解は許されない。そのうえで、小説を観る眼のちがいで、判定が異なるのなら、やむをえない。(…)
文壇史は、作品の誤読の累積である。たとえ名伯楽などと自他ともに任ずる編集者でも、ながい編集生活の間には、ひとつやふたつの決定的な、読み違いをした、心のうずきをもっているはずにちがいない。(137頁)
作家の運、不運は、なにによって決まるのだろう。才能はもちろんだが、才能だけとはいいきれないものがある。人のいい津田さん(津田信氏―引用者注)には、作家として生きる誇りと執念が足りなかったような気がする。文学よりも、文壇のほうに気をとられすぎたかもしれない。もうすこしおのれを恃む自負心があったら、どうだったろうか。(147頁)
いま引用した文章からは、すぐれた編集者と作家の間にただよっている緊張感がにじみ出るようである。編集者として作家の浮沈を目の当たりにしてきた人だからこそ言える編集者観であり、作家観である。
本書で数多く紹介される作家の興味深いエピソードのうち、もっとも強く印象に刻まれるのは松本清張のそれであるといっても過言ではない。権威をことさら憎み、最終的には文壇のボス的存在となった清張の人間的なエピソードに惹かれた。
高見順が日記に「食事のとき、おいしいものは、おいしいと言って食べる人と、どんなにおいしいものでも、まずそうに食べる人がいる。批評家とは正に後者か」と書きつけていることを引き合いに出し、編集者は作家の原稿をいかに「食べる」べきかという作家と編集者の間の関係について述べている。
大村さんは、少しぐらいまずくてもうまいということにしていたのだそうだ。これに対する松本清張の反応には苦笑を禁じ得ない。
そんなときに無邪気に喜んでくれる作家もいたが、松本清張さんのように疑りぶかいひともいた。お世辞をいうな、というから、それでは、と膝を組み直して、理詰めで批判をはじめると、こんどは機嫌が悪くなって、押し黙ってしまう。もういいからお帰りなさい、といわれたことが再三あった。(134頁)
松本清張には、各社いずれも選りすぐった女性編集者を配置したという。その代表が、北九州市立松本清張記念館館長で、先般松本清張の残像』(文春新書、感想は2002/12/29条)という本を書かれた元文藝春秋編集者の藤井康栄さんなのだろう。
面白いのは、清張には被虐的なところがあって、女性の担当者から締切を強く催促されることをひそかに楽しんでいるふしがあったという指摘である。
ふだん聡明で品のいい女性たちが、締切を間近にして殺気立ってくるのを待っているという。何とも人が悪いし、でもそんな清張がますます好きになってしまったのだった。

*1:ISBN4480813772

*2:ISBN448006138X