物語へむかって

雪沼とその周辺

書評集『本の音』*1晶文社)以来一年八ヶ月ぶりの堀江敏幸さんの著書が、相次いで二冊も刊行された。長篇エッセイ『魔法の石板―ジョルジュ・ペロスの方へ』*2青土社)と連作短篇集『雪沼とその周辺』*3(新潮社)である。
それまで続いていた堀江作品の不思議“一出版社一著書”の原則がついに崩された。青土社・新潮社からそれぞれ二冊目の著書となる。今回はその『雪沼とその周辺』から先に読んだ。小説だけでいえばゼラニウム*4朝日新聞社)以来一年十ヶ月ぶりで、堀江さんの小説にただようあの独特の雰囲気に餓えていた心の中が満たされたという感じである。
とはいえこれまでの堀江さんの小説とはずいぶん趣を異にする。雪沼という、村を少し大きくしたような町と「その周辺」に暮らしたり生まれ育ったりした人びとの日常生活を描く連作といった趣向はおそらく初めてではあるまいか。七篇の短篇は互いに少しずつ登場人物やエピソードが交錯している。連作好きとしてはたまらない仕掛けで、読みながらそうした交わりの細部を発見して顔がほころんだ。
『いつか王子駅で』*5(新潮社)では地の文に取り込まれていた登場人物同士の会話が、『ゼラニウム』では「――」(ダッシュ)で始まるハイカラなスタイルで地の文から分離し、ついに本書では普通のカギ括弧でくくられるようになる。その意味ではごく普通の物語のスタイルに同化した(してしまった)といえる。
こうしたスタイルの変化はしかし、これまで構築されてきた堀江さん独特の世界の崩壊を意味するわけではない。特殊な世界に見えながらよく読むと俗っぽいごく普通の人間関係を描いているにすぎない。自分の身の回りにありそうな俗っぽい人間関係を、遠い国で起こったファンタジーのような物語世界へと昇華させるのは、マニアックともいうべき執拗で細かい描写だろう。
川端康成文学賞受賞作「スタンス・ドット」はこの日で廃業するボーリング場経営者の物語。彼は流行最先端のボーリング・レーンを使わず、「ストライクのときすばらしい和音を響かせるかわりにかすかな濁りとひずみがまじるこの時期のピンの音」をあげる旧式の機械にこだわる。ボーリング場における音の描写と投球の描写。
また、段ボール製造工場経営者の物語「河岸段丘」では、裁断機を使って段ボール箱ができあがるまでの細かい描写が秀逸だ。雪沼の商店街の外れにあるレコード店を譲り受けて新しく開業した店主の物語「レンガを積む」では、レコードプレーヤーをはじめとするオーディオ機器の動きが容易にイメージされる。堀江さんの小説を読むと、いつも意表をついた「モノ」の描写に出会って驚いてしまうのだった。
いや、「モノ」の描写だけでない。人間の仕草の描写も実に細かく、印象深く刻まれる。信用金庫職員と中華定食屋店主の物語「ピラニア」では、信用金庫職員相良さんが「顔に比して口もとが異様に小さ」いためにレンゲで御飯物をうまくすくって食べられないというエピソードにつづけて、

好物の中華丼の、片栗粉でとろみのついた米粒が底面と側面のまじわる隅っこにへばりつくと、頬の内側でそれをこそげとるには筋肉が足りず、いったん口から出して上唇で吸うようにしてやらなければきれいに片づかない。
という即物的(解剖学的)とも言える描写がなされる。人間の仕草を徹底的に即物的に描けばユーモアに転化するという好例だろう。
いまひとつ相良さんのユニークな仕草。
胃の中でぽこっと音がしたあと空気の球が食道を抜けて口蓋に当たる、そこまでの間隔がはたの者にもわかるようなひどく具体的な首の動かし方をするげっぷで、う、の音は赤黒い管のなかにふたたび呑み込まれて舌先に自由を与えるのだった。
「う」と音をさせるげっぷという生理現象をここまで微細に描いた文章は、これまでの日本文学に存在しただろうか。こんな細かな描写ばかりを喜んで拾い集めていると、“木を見て森を見ず”ということになってしまうけれど、まあ素人なのだからこういう読み方があってもいいと思うのである。