縦のものを横にする

横書き登場

キーボードを前に文章を考えるようになって15年ほどになる。世の中の移り変わりに応じて目の前の機械がワープロ専用機からPCへ変わったとはいえ、基本的にキーボードを叩いて文章をひねりだすというスタイルに変化はない。
ペンの運動が思考を生みだすという石川淳の言葉を真似すれば、私の場合キーボードを叩く指の運動が思考を生みだすと言ってよい。ペンを動かすことと思考の歯車は完全に噛み合わなくなってしまった。
ワープロは文体を変え、字を忘れさせるとよく言われる。もっとも文体が変わるという問題は、固有の文体をもつ物書きの人に言うべきものだろう。
私がまとまった文章を書くようになったのはワープロを購入したことがきっかけだから、ワープロ導入と文体の変化云々という問題は考慮の外にある。
いっぽう字を忘れさせるというのはどうか。
これまた私の場合、仕事の一つ(というより重要な一つ)が原稿用紙に字を埋めること、しかも正字で字を書くことにあるから、ワープロで文章を書くことによって字を忘れるという現象からはかろうじて免れている。しかし本当に字を忘れるのだろうか。疑問なしとしない。
前述のように、まとまった文章を書くようになった初発の時点からワープロを使っているので、横書きの画面で文章を書くことに慣れてしまっている。縦書きを要請される場合は印刷段階で縦書きを設定するのみだ。現在ではPCソフトも進化して、縦書き編集できるエディターやワープロソフトが増えてきた。
でも横書きに慣れているため、逆に縦書きモードだと実にやりにくい。キーボードを叩く運動と思考の流れがちくはぐになってしまう。不思議なものである。
日本人として普通本を読むときはほとんど縦書きのものを読んでいるのに、書くときは横書きで何の問題もない。もちろん横書きの文章も読むし、書く。考えてみれば日本語という言語はいかにも妙である。
屋名池誠さんの新書新刊『横書き登場―日本語表記の近代』*1岩波新書)を読んでいたら、縦書きと横書き、しかも右横書きと左横書きまで使い分ける日本語のシステムは世界的にみても珍しいということを知り、上のようなことをつらつらと考えた。
著者屋名池さんは日本語学の先生。本書はもともと岩波書店のPR誌『図書』に連載されたものの前半に大きく加筆して成ったと「あとがき」にある。
連載時のタイトルは「縦書き・横書きの日本語史」というもので、偶然この第一回が掲載された『図書』を入手したときに面白そうだと注目し、いずれ本にまとめられたとき読もうと考えていたのだった。単行本でなく新書という手に入りやすいかたちで刊行されたことを喜ぶ。
さて縦書き/横書きの話である。
日本語における縦書きから横書きの推移を私は大雑把にこんなふうに考えていた。
江戸時代までは縦書き、明治維新以後横書きが登場(ただし右横書き)、太平洋戦争後に左横書きに変化。
本書を読むと、この私の認識は大筋では誤りというほどではないものの、かなり不正確であったと反省したのである。
第一に、そもそも横書きが日本語のなかに登場したのは江戸時代からであるという。江戸末期の1860年代の浮世絵に書かれた標題がその早い事例で、この場合右横書きである。右横書きの誕生は、西欧の左横書きされる文字との接触の結果、西欧趣味をにじませた意匠として使われたとのこと。
第二に、左横書きは戦後どころか右横書きとほとんど変わらない、というより右横書きより早い1840年代に見られるという。欧文が左横書きであるため、それに合わせて発生した。
もとより日本には「右横書き風」の書字スタイルは存在した。寺院の扁額などがそれである。しかしこの場合は横書きでなく、一行一字の縦書きだから見かけは右横書きというだけであるとする。一行一字の縦書きが左に行移りするので右から横に書かれる体裁をとるのである。
左横書き/右横書きはエリート/一般庶民という使い分けがなされていたという指摘、軍国主義のなかで右横書き=伝統的、左横書き=欧米の模倣・モダンという誤った図式が形成されること、しかし戦時中における戦争遂行のための合理性・効率性追求により左横書きが右横書きを駆逐して定着したことなど、興味深い指摘は多い。
いままで当たり前だと思っていたことの裏側を追究し、実は認識に誤りがあったと知ることの知的興奮は、本を読むことの醍醐味の一つである。
屋名池さんの連載後半がまたいずれ一書にまとまる日を待ちたいと思う。

*1:ISBN4004308631