歪曲され美化される記憶

美しい星

三島由紀夫の長篇『美しい星』*1新潮文庫)が改版されたのを機に買い求め、再読した。読むのは1990年の二月下旬に読んで以来13年ぶりだ。
ある日突然、UFOを目撃したことをきっかけに自分が宇宙人であると自覚し、地球救済を目的に立ち上がった埼玉県飯能市に住む一家が主人公の風変わりな小説である。
『決定版三島由紀夫全集10』(新潮社)に収録されている創作ノートには、こんな全体像が構想されている。

宇宙人と自称、それぞれの星より来りしと信ず、地球救済の目的。一方普遍世界の俗人も大ぜい登場。この俗世への不適応と、宇宙人らの絶対の純潔が地球人にことごとく傷つけられる。厖大な宇宙論的会話とディスカッション、絶対の純潔の戦ひ。
この一家は、父が火星、母が木星、息子が水星、娘が金星と別々の星からやって来て、それぞれ一人でいる時に円盤を目撃したという危うい体験だけでつながっている。
一家のこうした繊細な壊れやすい秩序に、俗世間が攻撃をかけてくる。自分も金星人だと詐称している金沢の美少年と娘の出会い。金星人たることを自覚することで純潔の美しさを増した娘に、きわめて人間的な事象である妊娠という事件が起こる。娘は、自分は処女懐胎であることを疑わない。最後は父親が、これまた人間的な病気である胃癌に侵され、死の床に伏す。
彼ら宇宙人一家と対峙するのは、人類滅亡を企む宇宙人の三人組。首魁は仙台の某大学で法制史を講ずる「万年助教授」で、太陽系外の白鳥座から来たと主張する。
物語の後半は世界平和を模索する一家、とりわけ火星人の父親と、仙台の三人組との間での白熱した宇宙論的議論が展開される。創作ノートにはドストエフスキー的会話」とある。そこには核戦争による人類滅亡の危機に瀕した人間社会への根源的批判が含まれる。
この小説が書かれたのは昭和37年(1962―三島は37歳!)であり、東西冷戦まっただ中の核実験―核戦争の恐怖が物語に投影されていることは明白だ。未来の見えない社会状況を、宇宙から地球にやってきた人間同士の対立という奇抜な設定で諷刺してみせたわけである。
私のミーハー気質は昔からで、この小説を初めて読んだとき、舞台の一つが当時住んでいた仙台の町であったことに感動したと日記に書いている。しかしながら後半の「ドストエフスキー的議論」にはついて行けず、「やはり私には、この人の小説を十分に消化できるだけの基礎的教養がないことを痛感す」と書いている。
この議論を消化できないのはそれから13年経った今でも変わらない。しかし昔と違うのは、別の楽しみ方ができるようになったことに加え、13年前に読んだ体験をも客観化して楽しめた点にあるだろう。
初読の印象から、本書に対して私は“仙台が舞台の小説”というイメージだけを抱き続けていた。
ところが今回再読して、仙台を描いた部分は、法制史の助教授たちが自らを宇宙人だと自覚したエピソードを語るくだりだけであり、長篇のわずかな部分であることを再認識したのである。
ただそれにしても、この助教授は私の出身大学で教鞭を取っていたことは明らかで、今は移転して本部や附置研究所の建物だけが残っている市内中心部のキャンパスの雰囲気が見事に小説に描かれている。
それだけでなく、青葉城址はじめ仙台市内の描写は実に細かい。残念ながら決定版全集には仙台の取材ノートの部分は割愛されているが、田中美代子氏による解題に抜粋されている概要を見ると、小説の描写は取材に忠実になされているようで、これは仙台だけでなく金沢の町も同じなのだが、いかにも切って貼ったという印象は拭いがたい。しかしそれこそがいかにも三島らしいと許せてしまうのだが。
三島らしいというか、逆に三島らしくないというか、こんなエピソードが面白い。東京に来た助教授一行を接待するため、主人公一家の長男が信奉する代議士(中曽根さんがモデルらしい)の指示で彼らを歌舞伎座に連れて行ったときの話。
歌舞伎座では十一代目団十郎の襲名披露興行が打たれており、「暫」「勧進帳」「鰯売恋曳網」の三狂言がかかっていた。
大喜利三島由紀夫の「鰯売恋曳網」という新作だったが、助教授がこんな小説書きの新作物なんか見るに及ばないという意見を出したので、あとの人たちもこれに従った。
察するに勘三郎歌右衛門という顔合わせだったのだろうが、こんな遊び心の仕掛けは13年前には気づかなかったものである。

*1:ISBN4-10-105013-9