「困ったものだ」という愛情表現

情痴小説の研究

今年七月に目黒考二さんの『活字学級』*1(角川文庫、7/14条参照)を読んでからというもの、日頃の読書を通じて、中年になったわが身を省み、また家族に思いを馳せるという目黒考二北上次郎さん(これは『記憶の放物線』*2本の雑誌社、9/19条)のスタンスの取り方に絶対的な信頼を寄せるようになった。
そうすると気になってきたのは、二年前(2001年10月)に新刊で購入して以来積ん読のままだった北上次郎『情痴小説の研究』*3ちくま文庫)だった。当時買いはしたものの、取り上げられた「情痴小説」に特別に惹かれるわけでもないので、時々手に取ることまではしても、読むまでには至っていなかった。ところが北上さんのスタンスに魅惑されたとなれば話は別で、「もしや」と思いさわりの部分を読み始めたらやはり思ったとおりだったので、そのまま読むことにした。この間「情痴小説」やその書き手たちとの距離もずいぶん縮まったという要因もある。
「思ったとおり」というのは、一番最初の徳田秋声『仮装人物』論「身勝手な男の本音」の末尾に、本書のテーマとしてこういうことが述べられていたからだ。

したがって情痴小説をテキストにこれから始めるのは小説論ではなく、恋愛論でもない。私のきわめて個人的な中年男論、あるいは初老男論なのである。(19頁)
やはり本書もまた、読書を通じてわが身を省みる型のエッセイ(評論)集だったのだ。
さて本書でテキストとして取り上げられている「情痴小説」とは何か。妻子ある中年男が若い女性の色香に迷って理性を失ってゆく小説のこと。北上さんはこれら情痴小説の主人公の特徴として、五つの点をあげている。(1)主体性に欠けること、(2)優柔不断であること、(3)反省癖があること、(4)自己弁護がうまいこと、(5)何事にも熱中しないこと、以上の五点。これらはすべて中年世代の特質であり、また北上さん自身の特質であるという地点から思考を開始している。
取り上げられている作家は、上記徳田秋声田山花袋近松秋江といった明治期の私小説から、立原正秋渡辺淳一といった現代でもよく読まれている恋愛小説作家まで様々である。個人的には、高見順(『生命の樹』)・丹羽文雄(『献身』)・里見紝(『多情仏心』)・武田麟太郎(『銀座八丁』)・舟橋聖一(『蜜蜂』)・林芙美子(『茶色の眼』)・宇野浩二(『思い川』)・檀一雄(『火宅の人』)のような、最近興味を持ったり読んだりした作家・小説の名前に惹かれた。
分別ある中年・初老男が若い女性にふりまわされ破滅の道をたどる。自己弁護がうまいから不倫をしても自己を正当化し、優柔不断だからふりまわされる。失敗したらいちおう反省はするが、すぐに忘れてまた情欲のおもむくままに行動する。こんな情痴小説の主人公たちの行動を分析しながら「困ったものである」と毎度つぶやく目黒さんだが、その言葉には突き放したような冷たさはなく、逆に苦笑して許してしまうような愛情が込められている。それはそうだろう。彼ら主人公たちと自分には紙一重の差しかないと考えているのだから。
上であげた五つの特徴を備えていない主人公による情痴小説もないわけではない。女に振り回されない主人公もいる。若い男が女性の色香に迷うことだってある。さらに女性作家が書く情痴小説とは成り立つのかなどなど、意外性のある角度からも情痴小説の構造に迫っているためか、この手の小説をこれでもかと繰り出されたときに味わう食傷感がなく、楽しく読むことができる。
この情痴小説論を読むと、情痴小説というジャンルが何と日本では花ざかりなのかということを思い知らされる。日本の近代文学において営々と続く情痴小説とその主人公の系譜を目にして、ひょっとしてこれはある種の日本人論ともいえるのではないかと思ってしまった。
情痴小説主人公の特徴を聞いて私が思い浮かべるのは谷崎の『痴人の愛』だが、この物語ほど読んでいて主人公のふがいなさに苛立つものはなかった。年齢を重ねるにつれてこの印象も変わるものなのだろうか。

*1:ISBN404197402X

*2:ISBN4860110234

*3:ISBN4480036679