東京でおぼえた愉しみ

東京の空の下、今日も町歩き

何度も繰り返して言うが、東京に移り住んで五年半が過ぎた。極端な言い方だけれども、自分にとって東京に来たことが果たして良かったのか悪かったのか、毎日のように考えている。
とはいえ結論は出にくい問題だろう。局面ごとにプラス・マイナスがあるだろうし、第一こういう問題は人生を締めくくるさいにつらつらと考えるものだろうから、まだ人生の途中(どのあたりなのかはわからないが)にいる立場でそう簡単には良し悪しを判断できないのである。
しかしこうして毎日のように、いま自分が暮らしている町が自分の人生にどんな影響を及ぼしているのか、何かにつけ考えていることは、住む町を常に客観化しているわけだから、決して悪いことではないような気がする。自分の住む町を常に客観的に認識する。ひいては自分のおかれている立場を常に冷静に見きわめることにつながる。
現段階での判断でいえば、東京に暮らすことはいろいろな面で自分にプラスの効果をもたらしているとはいえる。東北の田舎で暮らしていては身につけられなかった雑多な情報で着ぶくれ状態になっている。そもそもホームページを開設しなかった可能性が高いし、とすれば現在色々な面でお世話になっている書友の皆さんとも出会えなかった。
得るものもあれば失うものもある。時々、何気ない日常生活の端々からふと仙台での暮らしの思い出が頭にふわりと浮かんできて、それを機に強烈なノスタルジーが襲ってくることがある。
たとえば土曜夕方のTOKYO-FM「サタデー・ウェイティングバー・アバンティ」などを偶然耳にしたとき、それを聴きながらドライブしていた記憶が突如よみがえって無性にあの頃に戻りたくなる。とくにこれを聴きながらの特別な思い出があるわけでもないのに、甘美な雰囲気に頭が支配される。
週末のFM番組は他の番組でも同じだ。週末のやわらかい日ざしや、道を歩いていてただよってくる花の香りにもまた、過去の記憶をよみがえらせる装置が仕込まれているようだ。そのたびごとに、ありえたかもしれない“仙台での「楽しい」暮らし”を失った喪失感に襲われ、どうしようもなく悲しくなる。
ホームページを開設し書友の皆さんと本の話をするようになって、自分の本の好みもだいぶ変化したと同時に、読む量買う量も格段に増えた。仙台時代と現在に断層があるわけではないが、ある書き手に対し、東京に来てから仙台時代とはがらりと認識を異にしたという場合がある。
川本三郎さんがそうだ。『大正幻影』(新潮社→ちくま文庫)などを愛読はしていたけれども、その他(とくに映画関係)の著作にまでは及ばなかった。
ところが東京に来て町歩きをおぼえ、さらに“群衆のなかの孤独”を愛するようになって、川本さんの感性が自分の身体にしっとりと沁みわたってくるようになったのである。仙台に住んでいたらこうはならなかったろうと想像すると、東京という都市が川本さんの世界へと導かれた要件だったといえるのである。
むろんこれは、東京在住以外の人が川本的世界を理解できないと言っているわけではない。あくまで私個人の場合である。だから新刊『東京の空の下、今日も町歩き』*1講談社)を読んでいて、一部を連載誌『東京人』ですでに読んでいるにもかかわらず、猛烈に惹かれるものを感じたのである。
一人で町を歩く楽しみ、思いがけない店や建物、風景に出会う嬉しさ、地元の居酒屋や定食屋に入る緊張感、そこで味わう美味しい料理とお酒、そんなディテールの部分まで、すべてにわたって実践したくなってきてしまう。「いい居酒屋のそばには、なぜか古本屋がある」(118頁)などと書かれると、出かけないわけにはいかなくなるではないか。
先日自転車で遠出したとき、帰りは家の方向だけ見定めて、知らない道を適当に通ることにした。そうしたら思いがけなく商店街にぶつかって、それがとても嬉しかった。見知らぬ商店街に入って嬉しいと思う感情、これは東京に来ておぼえた楽しみだった。
「東京の町は全体が「商店街都市」「市場(バザール)都市」」であり、「商店街が迷路のようにつながっている」。その迷路にわざと迷い込んで歩いているときの快感は他の都市では味わえない。
『東京の空の下、今日も町歩き』は、そんな迷路のような町と地域ばかりを選んで、一泊の宿泊をはさんで歩きに歩いた紀行エッセイである。この本が好きという感性の持ち主と仲良くなりたい。けれど町歩きはできれば一人がいいな。矛盾した感情が沸いてくる本である。