評伝の読み方

戸板康二の歳月

いい評論・評伝というものは、何度読んでも面白く、また読むほうの時々の関心によって受ける印象も多様であるものだと思う。なぜこんなことを考えたかというと、矢野誠一さんの戸板康二の歳月』*1文藝春秋)を読んだからなのだった。
本書は私が戸板康二さんの著作にはまり出したごく初期の2000年7月に購入以来幾度となく繙き、その都度新しい知識を得、感銘を受けてきた本だ。
先日下高井戸シネマで開催中の小沢昭一出演映画特集「小沢昭一小沢昭一的シネマのこころ」の特別企画で、麻布中学の同級生加藤武さんと後輩矢野誠一さんお二人のトークショーがあったので聴きにいってきた。当日は麻布中学時代の思い出話に花が咲いた。
ずっとその著作のファンだった矢野さんの謦咳に接するのは初めてで、携えていった『戸板康二の歳月』にサインを頂戴することができたのは大収穫だった。そしてサインを横目に『戸板康二の歳月』を読みはじめたのである。
トークショーで印象深かったのは、東京の山の手と下町の話である。加藤さんは築地魚河岸の問屋に生まれたチャキチャキの下町っ子、また小沢さんは蒲田、フランキー堺さんは大森と、これもまた下町的気質に富んだ地域の生まれなのに対し、矢野さんは山の手の堅いサラリーマン家庭に育ったという。
矢野さんが入学した頃(1947年)の麻布中学は、山の手の子と下町の子の割合がおよそ半々だったとして、下町っ子と交わり、その文化に触れたときのカルチャーショックを話され、これが印象に残った。
戸板康二さんもまた山の手の子で、著作にも「都会的なセンス」があるとよく言われる。何が都会的・山の手的なのか、私にはいまひとつはっきりとわからない点がなくもないのだが、本書を読んでいると矢野さんがこうした戸板さんの山の手的気質と自らの共通性をかなり濃厚に意識しているふしがあることに気づく。
それだけでなく、戸板さんを語るかたわら金子信雄・大河内豪といった親友たちとの交遊や辛い別れを綴るあたり、評伝でありながら矢野さんの自伝的著作でもあるということを強く感じないわけにはいかなかったのである。
矢野さんはサインしながら自分の本のなかでも最も好きな本であるということをおっしゃっていた。こうした愛着は、たんに尊敬する先生の評伝というだけでない何かがあるゆえだと遅まきながら気づいたのである。