第51 群衆のなかの孤独

林芙美子展図録

東京に移り住むことが決まった五年半前をふりかえる。定職が決まった嬉しさ以上に、30年間暮らしてきた東北の地を離れ、まったく身寄りのない大都会に住まねばならないことに対する不安がまさっていた。
私と妻それぞれに東京在住の親類がいたとはいえ、平素親しくしていたというわけではなかった。私は同業者の団体というものが苦手で、学会・研究会のたぐいは極力忌避してきたので、その方面で親身に付き合える知り合いもいない。体調もすぐれぬまま。いったいどうなるのかと心細い気持ちで東京に来た。
勤めはじめて最初のうちはまわりの人が気を遣ってくれて昼食に誘ってくれた。そのうち煮ても焼いても食えないような私の無口狷介さに呆れたのだろう、誘われなくなった。仕事は楽しいのだが、生活してゆくうえでの「何か」が足りない。その何かを見つけないことには押しつぶされてしまいそうだった。
そんなときに知ったのが、孤独の楽しみである。せっかく東京に住んでいるのだから、東京という都市をとことんまで味わいつくそうではないか。東京に住んで東京を知らないのはもったいない。そう思って、休みの日には、これまで活字やテレビで目にするに過ぎなかった場所を積極的に訪れてまわった。
そのうち一人で歩き回ることの楽しさをおぼえた。一人でいることの楽しさをおぼえると、自然と周囲への観察力が鋭敏になるものである。東京の街、東京にいる人びとを観察することの楽しみを知った。
仙台に住んでいる頃は、もちろん一人で古本屋まわりなどをしていたのだが、一人で外食するという習慣がなかった。それをするならば弁当を買って家で食べたほうが楽だという心持ちだった。しかし東京に来て一人で歩き回っているうちに自然と一人で外食する習慣をおぼえ、職場の昼休みも気にならなくなった。かえって一人のほうが気が楽になった。
東京国立近代美術館に行った。書友ふじたさんのサイトで知ったのだが、収蔵作品展で版画家織田一磨の作品が展示されているというのだ。織田一磨は戦前の東京を描いた石版画家として知られており、荷風の序文のある『東京風景』や、モダニズム華やかなりし頃の銀座を描いた『画集銀座』などの連作画集がある。かねがね作品を見たいと思っていた画家だった。
収蔵作品展とはつまり常設展のことで、東京国立近代美術館では年五回の展示替えがある。先月「野見山暁治展」を見るために初めて訪れたのだが、この間展示替えがあったのだった。
織田の作品は版画の特集展示で、上記『東京風景』『画集銀座』から20点ほどが選ばれ、展示されていた。展示の空間に入るやいなや、作品から漂う濃厚なオーラを感じ、作品をじっくり鑑賞しているうち、立ち去りがたい気持ちになりしばしその前にたたずんだ。とくに惹かれたのは「目白阪下」「木場雪景」「神楽阪」といった夜景を描いた作品で、東京にもかつてこんな夜があったのだと驚くほどの静謐感に満ちている。
海野弘さんは織田の作品をこのように評価する。

織田は特に夜の街の風景を好んだようである。闇の中に浮かび上がる灯火、広告の照明といった人工の光のつくりだす都市風景の幻影的な空間を彼は表現しつづける。(…)オーソドックスで、堅実な描写が多い彼の作品の中で、そのような夜の闇を描いた作品は特に非常にモダンな感覚をのぞかせている。(「織田一磨」、『東京風景史の人々』中央公論社
収蔵作品展全体も大変面白かった。松本竣介はむろんのこと、藤田嗣治の作品にも惹かれる。フジタの戦争画を初めて見たけれど、そのリアルさに、近くにある猫の絵との懸隔に首をひねらざるを得なかった。フジタをしてこれら戦争画を描かしめたものは何だったのか。
教科書でよく見るような安井曾太郎安田靫彦の名品にお目にかかれたのも嬉しい。とりわけ源頼朝義経兄弟の初対面を描いた安田靫彦の「黄瀬川陣」は、一双の大屏風であったとは。こうした教科書で見る絵画の実物と比較的手近に接することができるのも、東京に住んでいる利点だろう。
東京に住んでいてもこの手の方面にはまったく興味を持たない人もいる。それもひとつの生き方だが、「東京だから」というメリットを最大限に生かして暮らそうという私の新たなライフスタイルの利点をあらためて噛みしめさせたのが、東京国立近代美術館の名品群であった。
竹橋の美術館を出た足でそのまま向かったのが、神保町。青空古本市・ブックフェスティバル開催中である。絵を見て幸せな気分になり足取り軽く、今度はそのすぐそばで開催されている「世界一」と標榜する本の町のお祭りに飛びこむ、これまた東京に住む醍醐味だ。
竹橋界隈のオフィス街は週末のためにひっそりと閑かだが、一ツ橋を渡って白山通りを北上すると、共立講堂・学士会館を過ぎたあたりから一転、お祭りムードがあたりを支配している。
青空古本市に来るのは東京に住んでから二度目か。仙台に住んでいた頃一度来たことがある。そのときは、せっかく来たのだからと陳列されている棚すべてをくまなく見て回ろうとしたゆえ、帰りはへとへとになっていた。そのときと比べても、祝祭空間はよりいっそう賑やかさをまし、人出も多くなった。
じっくり棚を見て回る余裕もない。棚をパッと見て、もし運良く出会えた本があればラッキー。そんな気持ちで棚をさっと見て回る。残念ながらそんな出会いはなかった。
さて今回のメイン、新宿歴史博物館で開催中の「林芙美子展」の企画、川本三郎さんの講演「林芙美子の昭和」を聴きに行く。その日の朝刊で展示のことを知り、慌ててネットに情報を求めたら、当日講演会があることを知ったのだ。
川本さんの謦咳に接するのは、1999年8月、江戸東京博物館で開催された「永井荷風と東京展」での講演会以来四年ぶりのこと。荷風から林芙美子へ。川本さんの関心の推移につれて、川本ファンの私の関心もともにうつろう。会場の博物館講堂は定員の100席がほとんど埋まるほどの盛況で、ざっと見渡すとやはり年配の方が多い。
さて川本さんのお話は、いきなり著書林芙美子の昭和』*1新書館)の宣伝から始まった。自分の本としては驚くほど売れた『荷風の東京』(都市出版)に比べて、本書は期待ほど売れていない。ぜひ買ってくださいとの発言に場内から笑いが。
売れない理由として、不景気であることのほか、林芙美子という作家は知名度のわりに読まれていない、現在簡単に入手できる作品が少ないこと、また、本好きの層と芙美子が好きな層がダブらないという自己分析をされた。三点目はなるほどそうかもしれないと思う。つまり林芙美子は「大衆小説」であって取るに足らないというのだ。
一例として、松本清張の小説「渡された場面」(川本さんはこれを『点と線』に匹敵する傑作と言っていた)のなかに、林芙美子を読む旅館の女中が登場し、彼女が学生から馬鹿にされているという話を挙げられた。清張の作品が出た70年代頃の芙美子観とはこのようなものであり、川本さんご自身もこれとまったく同じ見方をされていたという。
それが一転して林芙美子に興味を持つようになったきっかけが、成瀬巳喜男監督の映画作品を好んで見るようになったことだったという。林芙美子原作の成瀬映画は名作「浮雲」はじめ「めし」「晩菊」「放浪記」「稲妻」「妻」など数多い。成瀬映画への傾倒が自然林芙美子への関心を生じさせたわけだ。
成瀬・林の共通点として、貧乏大好き、お金(借金)の話が多い、男がだらしない、物事を解決させない(ハッピーエンドにならない)という点をあげている。いっぽうで成瀬・林の違う点、とりわけ林芙美子作品の特徴として特記されるのが、女性一人で生きてゆくという自立精神の存在であるとする。
一人で町を歩き、一人で飲み屋に入って酒を飲む。昭和初期に女性一人としてはおよそ考えられないような行動を芙美子はいかにも楽しそうに文章に書く。若い女性が一人で浅草に行き、昼間からお酒を飲むということを書いた文学は、おそらく芙美子が嚆矢だろうという。現代ですら少ないと思われる。川上弘美さんあたりが後継者か。
今回の川本さんのお話は、この芙美子の「単独者」としての存在への注目が柱であった。単独者の文学で思い出されるのは荷風。それまで荷風は「偏屈じいさん」として世間の好奇の目にさらされていた。それが近年、荷風には若い女性読者が増加しているという。これは一人で生きるという「単独者」への関心にほかならず、このところ単身生活者が都市東京のなかで増加しているという傾向とあいまって価値観の変化によるところが大きい。
荷風ファンの増加は、一人で生きるということに対してそれまで世間が与えていたマイナスイメージを払拭するものであり、荷風を尊敬していた芙美子もその系譜に位置すると指摘する。単独者が一人で生活することの楽しみを見いだす。実はこれは歴史性をもつ。
江戸と連続した明治のムラ的社会では、単独者でいることは白眼視され住みにくいものだった。そんな単独者の生活を可能にしたのは、震災後のモダン都市の勃興である。東京がモダン都市に生まれ変わると同時に大衆社会が到来したことにより、大勢の人が暮らす大都市のなかで、好きなときにいつでも匿名の個人になることができ、それを楽しむことが可能となった。
荷風がそうであったし、結婚していたとはいえ芙美子も多分にそうした性格を根底に有していた。モダン都市東京は“群衆のなかの孤独”を楽しむライフスタイルを生み出した。ボードレールに始まり、荷風へと受け継がれた精神が芙美子にも流れている。川本さんはこう指摘する。
晩年の長篇『茶色の眼』(成瀬映画「妻」の原作)や、遺作となった『めし』は夫婦を描いた作品であるが、これもまた単独者と無関係ではない。単独者にとって夫婦とは何か、家族を作ることと一人で生きることという価値観のぶつかり合いを描いたものだという。そう言われると、この晩年の作品に強く惹かれるものを感じる。
今回の講演でいまひとつ重要なテーマだったのは戦争である。芙美子は戦争のお先棒をかついだ文学者という評価がされがちであるが、実はそうではない。兵隊と一緒に行軍して兵隊の目で戦争を見た貴重な戦争文学をのこしたと評価する。日の丸を背負っておらず、大所高所から眺めるのではなくあくまで「虫の目」で戦争を見る。
こうした芙美子の戦争への視点は、やはり単独者であったからこそ可能だったという。「林芙美子と戦争」というテーマに絞って、来月12月14日に文京シビックセンターで講演をされるということで、今回はさわりだけお話くださったが、それだけでも考えさせられる指摘であった。もっともこれらはすでに『林芙美子の昭和』のなかでも言及されている。
お話をひととおり終えたあと、川本さんは最前列にお座りになっていた老女二人を紹介された。一人は芙美子の姪御さん(図録によればお名前は林福江さん)、もう一人は疎開中や戦後晩年にもっとも信頼された家政婦の方。お二人とも高齢であろうにもかかわらず記憶がしっかりしており、尽きせぬ芙美子の思い出を語ってくださった。
とくに姪の福江さんは芙美子の急逝を看取った方でもあり、亡くなる前後の様子を生々しく語ってくださった。身長が芙美子と同じということだったが、川本さんの肩くらいまでしかない小柄で、たぶん150センチに満たないだろう。小さな芙美子の身体を想像し、そこにみなぎっていた「放浪記」のバイタリティあふれる行動を思う。
戦争というテーマでは、中公文庫に入った『北岸部隊』を読みたくなり、単独者というテーマでは『茶色の眼』(講談社文芸文庫『めし』新潮文庫)を読みたくなった。何とも刺激的な講演だったということである。
川本さんの講演で、はからずも「群衆のなかの孤独」を楽しむ荷風―芙美子という系譜の文学が脳裏に強く刻まれた。川本さんご自身もこうした「群衆のなかの孤独」を実践されている一人にほかならない。
「群衆のなかの孤独」を私個人は東京に来て初めて「発見」し、味わっている。仙台という比較的大きな都市ですら見いだしえなかった楽しみが、東京にはあった。この一日は、私の東京生活五年有余の時間を冷静にふりかえってみることができたという意味で、有意義であったといえよう。