「百間遺跡問題」解決

百間遺跡

谷根千』73号(2003年6月)の特集は「煉瓦の記憶」だった。ここで私のよく知る煉瓦造建物についての記事があったので、その建物に関する追加情報をお知らせしたい一心で思わず谷根千工房にメールを出した。そうしたら編集人の一人仰木ひろみさんから懇切なお返事を頂戴し、その追加情報を次号に掲載していただくことになった。そしてこのほど出た74号(2003年10月)に拙文が掲載されたのである。
この間仰木さんと何度かやりとりするうちに、かねがね疑問に思っていたことをせっかくの機会だから聞いておこうと思い立った。根津神社前のS字坂上にある白ペンキ塗りの家のことである。
この建物については、以前「弥生の百鬼園先生」として書いた(2002/12/18条)。簡単に要約すれば、帝大生として岡山から上京した百間内田栄造が上京直後の一時期下宿していたのがS字坂上であり、その頃をふりかえった回想エッセイの描写を読むと、そこに記されているそのままの建物がまさに今もその場所に建っており、これは果たして「百間遺跡」なのかどうかと疑問を呈した。
そのさい私は「私の知るかぎりこの家が「百間遺跡」であることを指摘した文章はない」と書いたのだが、今回仰木さんとのやりとりでこの建物と百間の関係を洗い出した文章がすでに『谷根千』に掲載されていることを教えていただいたので、さっそく取り寄せて一読した。
それは多児貞子さんという方の「内田百間が下宿した彌生町一番地の洋館」という文章で、第37号(1993年10月)に収録されている。
結論からいえば、タイトルからも薄々察せられるように、私の推測したとおりあの建物はまさに内田百間が下宿した建物そのものであったのだった。これには感動するとともに、先の一文を書いたとききちんと『谷根千』のバックナンバーを調べるべきだったと、わが迂闊さを恥じた。
多児さんは百間の文章を丁寧に読み解き、当時住んでいらした方や周辺にお住まいの方の聞き書をもとにこの建物が「百間遺跡」であることを証明されている。ただこれを読むと、当時百間が下宿していた一階奥の一室(およびその階上の二階の一室)の部分は、昭和13年に西隣の家が建つとき切り取られてしまったのだという。すなわち百間が間借りしていた当時の建物の東側三分の二が現存しており、厳密にいえば百間が住んでいた部屋はすでに存在しないわけである。
まあこれはこのさい仕方ないだろう。多児さんは文章の最後に「百間ゆかりの家で現存するのは、この「向ヶ丘彌生町一番地」の下宿しかない」と結んでいる。たとえ百間が寝起きしていた部屋がなくとも、あの建物は百間が下宿していたそのままの建物だったのだ。
年譜によれば住んでいたのは明治44年(1911)だからすでにそれからでも90年を経過している。建物自体は当然それ以前から建っていただろうから、築100年になんなんとするわけで、これを文化財級の建物だと言ってしまうのは大げさだろうか。
本郷にある旧徳田秋声邸はたしか明治30年代に建てられ、いまも現役でご子孫の方が住まわれている。これは立派な「東京都指定史跡」に指定されて家の前に解説板が設置されている。
いっぽうの百間下宿については、そんな表示はもとよりなく、S字坂下に設置されている解説板には鴎外の「青年」でこの坂が描写されていることが書かれているだけだ。多児さんが言われるように、現存する唯一の「百間ゆかりの家」であるとすれば、史跡指定とはいかないまでも、何らかの表示をするなどの策が講じられてもよいのではあるまいか。
そもそも本郷にはほかにも、石川啄木が間借りした真砂坂上の喜之床跡や炭団坂上坪内逍遙旧宅跡、菊坂界隈にある宮沢賢治樋口一葉の旧居跡、隣の西片には佐佐木信綱旧宅跡、千駄木には高村光太郎旧居跡などの解説板が立っている。このなかに百鬼園先生が加わっても、何の遜色もないのではないだろうか。
気がかりなのはこの百間下宿が現在空家らしいこと。多児さんが取材された十年前には88歳のおばあさんがお住まいであり、「この家をとても大切に使っていて、築九十年とは思えないほどよく手入れされ、掃除も行き届いて」いたという。十年という時間は残酷だ。維持する人がいない家の運命は誰にでも想像がつく。
ああそれにしても、90年前、岡山から上京したばかりの若き帝大生内田栄造が、心細い気持ちを抱えながらあのS字坂を上り下りし、また下宿から根津神社の木々を眺めていたかと思うと、格別の感慨にとらわれる。