歴史的存在としての文士共同体
大村彦次郎さんの新著『文士の生きかた』*1(ちくま新書)を読み終えた。大村さんは講談社『小説現代』『群像』の編集長を経て同社の要職についた名編集者の誉れ高い方である。新田次郎文学賞を受賞した『文壇栄華物語』(筑摩書房)など定評のある文壇物の名著が知られる。
私はこれら文壇物は読んでいないため、大村さんの本を読むのは本書が初めてであった。本書も先行文壇物の系譜に連なる。
本書は芥川龍之介・葛西善蔵・嘉村礒多・直木三十五・徳田秋聲・近松秋江・葉山嘉樹・宇野浩二・久保田万太郎・谷崎潤一郎・高見順・山本周五郎・和田芳恵、以上13人のポルトレが描かれる。
著者がどのような姿勢で彼ら文士たちの生活を切り取り、描いたのかは「あとがき」で述べられている。
かつての日本の文壇には、文士と呼ばれる一群の作家がいた。彼らには特有のモラルや美意識があって、世の常識とは異なる生きかたをした。それが許容されたのは、妻や愛人や周囲の家族、友人たちの多大な献身と犠牲があったからである。一人の作家に割かれているのはせいぜい十数頁に過ぎないから、そのなかに上記著名作家たちの文学活動と生活を盛り込むのにはそれなりの切り口が必要であり、確固とした視点が不可欠である。でないと通り一遍の作家のミニ伝記集として消費されてしまいかねない。
先行著作は未読なのですでに目新しい論点ではないのかもしれないけれど、私は大村さんがここで「文士」という人びとを「作家」という大集合のなかの部分集合であると規定する視点に目から鱗が落ちた。これまで私は「文士」という呼称を「作家」と曖昧なまま区別せずにそのときの気分、その作家の雰囲気から使い分けていたに過ぎなかったからだ。
なるほど近代日本のある時期に「文壇」というものが存在し、それを形成していたのは作家という職業のなかでもとくに「文士」と呼ばれる人びとだったと考えれば、彼らの存在は歴史的具体性を帯び、そのあり方に対する研究の余地が生ずる。
文士社会特有のモラル・美意識は、世間一般の物さしでははかれないものがある。世間的に見れば痛烈な非難を浴びるような不行跡をいくら重ねても、文壇社会のなかでは見捨てられるどころか逆に好意を寄せられ、貧困を救うため援助を惜しまない友人たちが多くいる。そんな相互扶助的で奇妙な人間関係の網の目のなかに13人の作家が置かれ、その仕事と生活・女性関係が犀利な視点で叙述される。
個人的には宇野浩二以降六人の作家のポルトレに惹き込まれた。「私の一生はエピソードの連続」と述懐する久保田万太郎の一生は、どの作家の筆によっても面白いし、谷崎と妻千代、そして佐藤春夫・大坪砂男の四角関係のエピソードにも驚かされた。また、高見順・山本周五郎・和田芳恵の作品を猛烈に読みたくなってきた。
とりわけ高見順の作品、また和田芳恵の名著『一葉の日記』は、近々読みたいと思って机辺のわかるところに置いていただけに、本書をきっかけにまた読書の世界が広がるような、嬉しい予感がする。