待ち伏せに気づかずに

詩歌の待ち伏せ(上)

北村薫さんは実作者としては言うまでもなく、『謎のギャラリー』(新潮文庫)や『本格ミステリ・ライブラリー』(角川文庫)などを編む名アンソロジストでもある。つまり紹介者でもあるということで、アンソロジーを編むという営みの背後には、厖大な読書体験が積み重なっているということにほかならない。
その一端が、ミステリ分野でいえばたとえば『ミステリは万華鏡』(集英社文庫)で示されているし、その他の分野では『詩歌の待ち伏せ』(文藝春秋)があげられる。
『詩歌の待ち伏せ』は昨年6月に上巻*1が刊行された。本屋で何度か手にとって買うかどうか迷ったし、ネット書友の皆さんの高い評価もうかがっていた。しかしながら時間が経つにつれ他の本へと関心が移ってしまい、そのままになっていた。
今月その下巻が出るという報を得て、上巻がふたたび気になりだしたおりもおり、古本屋で出会ったのである。これはまさに「待ち伏せ」を受けたということ。そう、本書書名の「待ち伏せ」とは、まさにこのような意味なのだ。
本書は、北村さんの過去から現在に至る読書生活のなかで偶然出会って脳裏に刻みつけられた詩歌について、それらの解釈や背景、また北村さんがそれらと出会ったときの情景などがやわらかな語り口で綴られたとても楽しい本であった。

小説以上に、詩や短歌、俳句は、こういう偶然の出会いから、それぞれにとって大事なものとなることが多いのではないでしょうか。(…)そういったように、いわば心躍る待ち伏せをしていて、否応無しにわたしを捕らえた詩句について、ここで述べてみたいのです。(9-10頁)
「詩歌の待ち伏せ」を受けそれがその人の読書体験の一つの核をなすというのは、人の心をとらえる詩歌のインパクトの強さだけでなく、待ち伏せされる人の詩歌に対する感度の度合いというものも関係しよう。読みながら私は、詩歌の待ち伏せを受けていても、鈍感でまったく気づかずに横を通り過ぎていったに違いない自分の過去をふりかえり暗然たる思いにとらわれた。
待ち伏せした詩歌の気持ちになれば、「こいつ気づかないで通り過ぎた」と呆れたに違いない。散文にくらべて詩歌のほうが言葉の凝縮度やインパクトの強さからみて、待ち伏せされ、気づく確率は断然高いはずなのに。
いま詩歌のことばかりに言及したが、上であげておられる詩・短歌・俳句のほかにも、北村さんは童謡や唱歌、言葉遊びなどからの「待ち伏せ」にも触れておられるし、散文の「待ち伏せ」もないわけではない。
ある本を読んで気になる一節があった。別の日に、まったく違う本を読んでいて、その一節やもしくはそれに関係する記述と偶然出会う。これも「待ち伏せ」であって、北村さんもそうした体験をいかにも楽しそうに語っておられる。
このたぐいの「待ち伏せ」体験であれば私も何度か憶えがある。この「待ち伏せ」体験は快感以外の何者でもなく、思い出して反芻するたびにそのときの興奮や嬉しさがよみがえってくる。言葉や文章との偶然の出会いを「待ち伏せ」と表現してその楽しさを掘り起こしてくれた北村さんは、やはり私にとってよき案内者である。
北村さんは元高校の国語の先生だが、国語の先生からこんな楽しいお話を聴ければ、もっともっと待ち伏せを受けるセンサーの感度も鋭くなっていたに違いない。