無垢な読書と戦略的読書

悪の読書術

ごくまれに、数冊先まで読む本を決め意識的に流れをつくって読書することがある。でもこれはいま言ったようにまれであり、ふつうは読みたいというわが欲望のおもむくまま読む本を選び、それが結果的に流れを形成する(もしくは流れにすらならない)という、きわめて本能的かつ感覚的な読書生活を送っているのである。
実際、ある本を読んでいる途中で、「次はこれを読もう」と積ん読本のなかから目星をつけた本があったとしても、読み終えた時点でそのことをすっかり忘れ、その時点での読みたい本を選んでしまうということを繰り返している。
福田和也さんは新書新刊『悪の読書術』*1講談社現代新書)のなかで、「自らの無垢さ、善良さを前提とする甘えを抜け出し、より意識的、戦略的にふるまうためのモラル」としての「悪」の思想を出発点に、ただ自分の好きな本を気のおもむくまま読みふけり、愛読書を無反省に公表するようなイノセントな読書をするのではなく、「社交的」な読書をせよと提唱している。
社交的というのは言葉どおりの意味であり、ひとりよがりの営みでなく、人とつきあうと同じレベルで社交的に本と向き合うことで、自分を認識し、他者を理解しなければならないというのだ。
だから、読む本の選択はおろか、その傾向を他人に話したり、読む本を持ち歩いたりするときには、ファッションと同じくTPOをわきまえ、他者の目に気を配らなければならないと福田さんは主張する。「どんな本を読むのか、どんな本を自らの愛読書として人に示すのかということは、自分がどんな人間になりたいのか、どんな人間だと、人から見られたいのかという問いに直結」(228頁)するのである。
それなのにいまの人は、ファッションには気を配るけれども読書にはあまりに無垢である、意識せよ、と警鐘を鳴らす。
結論は「イノセントに読書を楽しむ、自分はこの本が好きだから読む、ではなく、自分を自分として作り、向上させるために何を読むべきか、ということを客観的に考えるべき」という主張であるが、ここで言われている「向上」というのは教養主義的意味でなく、社交的な意味での向上、スノッブな意味での向上だと言い放つ。これはかなり勇気のいる、気合いの入った戦略的発言ではなかろうか。
読書すること、その嗜好を他者に示すことで自らのスノッブ度をステップアップさせる。これこそが読書の本領だ。いまの時代、福田さんがあえてこう言わなければならないほど、読書という営みへの価値観が変化したといえるだろう。
このような主張のキーワードとなるのが「知的虚栄心」だ。いまの人は見栄を張ったり無理をして背伸びをしながら本を読むということがなくなったと福田さんは嘆く。
本書を読みながら自分の読書生活を省みると、このようにホームページで買った本・読んだ本をさらけ出し、しかも感想を臆面もなく書き続けている私のような人間は「知的虚栄心」の塊以外の何者でもないなあと思う。
とはいえ冒頭で表白したように、読む本の選択はきわめて感覚的で外面を気にしないものであるし、実際本書『悪の読書術』を買ったのだって、目次に「須賀敦子はなぜアッパーか」「問答無用の白洲正子」「江國香織は天才である」「「宮部」「高村」を読むことの問題点」といった言葉が並んでいたことに惹かれた衝動的なものである。
また、いま読んでいる本数冊をさしおいて読み終えてしまったのだから、本能的であることは理解してもらえるだろうと思う。とはいっても、これまで一冊も買ったことすらない福田和也さんの本を突然購入し、しかも積ん読期間を置かずに読み終えてしまったことについて、知的虚栄心が皆無であるとはいえず、またいくぶんかは戦略的であったということも否定しない。
というように、自分は読書に対して果たして無垢なのか戦略的なのか、読みながらそんな点を深く考えさせてくれる刺激的な本であったことは間違いない。
宮部みゆきさんや高村薫さんのぶ厚い作品を読む女性(とそれにつけこむ男性)論というのが面白い。女性がああいうぶ厚い本を抱えて歩いているのを見ると、暇で時間が余っているのだろうと下種の勘ぐりをし、そうした女性を誘おうと考える男性が出てくる。宮部・高村お二人の作品を読むというふるまいはそんな世間知らずで幼い外面的印象(「悪」が稀薄)を与えてしまうというのである。
宮部・高村お二人の作品を読む女性=暇という思考回路すらなかった私にとって、この議論の筋道には度肝を抜かれた。