鬼子的作品の面白さ

江戸川乱歩全集4

「孤島の鬼」を読んだ興奮醒めやらず、そのまま同じ光文社文庫江戸川乱歩全集』第四巻*1に収録されている長篇「猟奇の果」にも手を出した。
「孤島の鬼」のような長篇や、「隠獣」「押絵と旅する男」といった傑作中短篇は二度以上読んでいるが、さすがに乱歩ファンとはいっても「猟奇の果」は初読以来読んでいない。江戸川乱歩推理文庫版(第9巻)が1988年に出ているから、15年ぶりということになる。
「猟奇の果」は乱歩の長篇のなかでもマイナーな部類に属するだろうし、作品の出来自体も「孤島の鬼」「蜘蛛男」などとくらべると格段に劣るという評価が一般的だ。この作品は昭和5年(1930)、『新青年』を出している博文館の月刊誌『文藝倶楽部』に一年間連載された。同誌の編集長は横溝正史であった。
さてこの作品は、内容はともかく出来上がったかたちがきわめて風変わりである。というのも、構想を練る時間の不足ゆえに一年間連載の約束でありながら半年程度で種が尽き、窮した乱歩は横溝に相談して後半は「白蝙蝠」とタイトルを変え、当時熱狂的読者を獲得していた「蜘蛛男」にならって明智小五郎を登場させ、活劇風に物語を仕立て直すという「木に竹を接ぐ」小説になっているからである。
通読すると、窮余の策としての後半「白蝙蝠」の部分の緩みようといったら目も当てられず、まるで気の抜けたビールのようで、読み通すのに難渋した。
ところがそれに対して前半「猟奇の果」の面白さ、不可能興味の質の高さは、他の乱歩作品に劣らぬほど絶品なのだ。この部分だけとれば、「孤島の鬼」に匹敵する。
世の中のことに飽きた主人公が猟奇を追い求めた結果、友人と瓜二つの人物に遭遇したのをきっかけに事件に巻き込まれるというのが主な筋である。
九段靖国神社での招魂祭や浅草六区に展開する見世物小屋など祝祭空間の猥雑さと、ひっそりと閑かな麹町のお屋敷町にある淫売宿での男女の異常性愛とその様子を押入から覗くという倒錯趣味、池袋郊外の原っぱの中にある空き家での奇怪な出来事といった都市の暗部のコントラストが見事で、同じ人間が二人いるという不可能興味のサスペンスと相まって前半の最後まで一気に読ませる。
たとえばこんな浅草公園の描写は乱歩ならではで、モダン都市東京の絶好のテクストたりうる。川端康成の『浅草紅団』を連想させるような新感覚派的文体ではなかろうか。

二重奏と云えば、つまるところ、公園全体が一つの大きなオルケストラに相違なかった。ジンタ楽隊、安木節の太鼓、牛屋の下足の呼声、書生節、乞食浪花節、アイスクリームの呼声、バナナ屋の怒号、風船玉の笛の音、群衆の下駄のカラコロ、酔っぱらいのくだ、子供の泣声、池の鯉のはねる音、という千差万別の楽器が作る、安っぽいが、しかし少年の思い出甘いオルケストラ。(光文社文庫版419頁)
九段・浅草・麹町・池袋という乱歩らしい地理学を駆使した前半に比して、後半「白蝙蝠」では表面的には犯人対明智という活劇風でありながら具体的な地理描写に欠ける、つまり地理的なダイナミズムに乏しいきわめて抽象的な物語になっていて精彩がないのである。このことは乱歩作品において都市東京という道具立てがいかに重要かを示している。
後半がまったく退屈であるにもかかわらず、最後まで何とか読み通したのには理由がある。光文社文庫版には、「もうひとつの結末」という別バージョンのテクストが付載されているのである。
「もうひとつの結末」は、後半をすべて削除して、かわりに前半の最後に続くかたちで二章分新しく結末を書き足しているというもので、したがって明智は登場しない。不可能興味の種明かしがことごとく陳腐な子供だましであったのは致し方ないが、「白蝙蝠」での章タイトルから内容まで一変させた改変に比べれば、こちらのほうがずっとすぐれていると思う。
新保博久さんの解題・解説によれば、この「もうひとつの結末」は、戦後直後昭和21年12月に日正書房という版元から出た版のみに見られるという奇妙なもので、日正書房というのは、創価学会二代目会長戸田城聖が社主を勤めていたという。乱歩は創価学会員ではなかったものの、戸田とは多少の交際があったらしい。
とはいえこのテキストが乱歩自身の作とは断定できず、別の人間による代作の可能性もあったのだが、最近発見された横溝正史との往復書簡のなかに、この部分が乱歩本人の筆によることを示す記述が見つかり、今回の新全集への収録となったのだ。そういう意味でも新全集は最近の研究の成果が十分取り入れられた信頼できるものということができる。
乱歩といい谷崎といい、波瀾万丈に手を広げすぎて収拾のつかなくなったこのような「鬼子」的作品が面白いというのは逆説的である。