また読んでしまった

同じ著者の本を続けて読むと飽きがきてしまい、好きだった人も好きでなくなるという恐れから、あまりそういうことはしてこなかったのであるが、つい興に乗ってしまってまた戸板さんの本を読んだ。『回想の戦中戦後』青蛙房)である。
気になったので我が書棚の“戸板コーナー”を見ると、ない。涼しくなってきたにもかかわらず、汗をにじませながら積ん読の山を解体し、底のほうから同書をすくいあげた。
記録を見ると去年の11月に銀座奥村書店で購入している。この本は函入り布装の立派なものだが、思いのほか安く売られていたのでつい財布の紐がゆるんだ。見てみると古本にしては新品同様の状態で、スリップまで付いたいわゆる“完本”に近い。
帰宅後ネットで古書価の相場を確かめてみたら、私が購入した値段の二倍近くするのに驚いた。そうした相場をよく知っているはずの奥村書店だが、いや、奥村書店だからこそ、いい本を安い値段でファンに提供してくれたのだと感謝している。
さて読みながら、いま書いたように思わず「いい本だなあ」と呟いてしまった。少年時代を過ごした大正期の芝・三田界隈の話を手始めに、大部分はタイトルにあるように戦中戦後の思い出話が懐かしくふりかえられている。戦争の爪痕もまだ生々しい東京の街にわきあがった復興のきざしが、劇壇を中心に回想される。
三十代そこそこという新進気鋭の劇評家としての戸板さんは、この時期の劇壇の貴重な目撃者であることを再確認した。
先日来気になっていた言葉の問題については、こんな文章を発見して嬉しかった。

ぼくも、ある時期まで、歴史的仮名づかいで書いていたが、新聞の仕事をする以上、現行の漢字や送り仮名を無視できないので、いつのまにか、妥協してしまった。(「わが交友記(中)」108頁)
やはり根本は歴史的仮名づかい(旧かな)派だったことがわかったのは収穫。姿勢の変化は「いつのまにか」と書かれているけれど、不満はなかったのだろうか。
電車の話に戻ると、終戦の翌年、新宿で用をすませて築地に行こうとして、安全地帯で待っていたら、大谷広太郎時代の中村雀右衛門に会った。
ちょうど三越劇場で「吃又」のおとくを、市川海老蔵と共演している時で、二人で電車に乗ってから銀座四丁目まで、おとくの話で終始した。
石の手水鉢の端から端に自画像が抜けたのを見つけたおとくが、夫の又平にそれを知らせるときの手つきを、夢中でして見せているので、まわりの乗客がおもしろそうに見ている。(「戦後窮乏の時代」170頁)
いまも第一線で活躍している雀右衛門さんの若き頃のエピソードである。「吃又」(「傾城反魂香」)のおとくは、吉右衛門の又平で私も観た。戸板さんと体験を共有したようで嬉しく、そして、その至芸をいまも元気にわたしたちに見せてくれる雀右衛門さんの若さに脱帽せざるをえない。