「日曜日の夕刊」を月曜日の朝に

日曜日の夕刊

年の瀬までまだ三ヶ月近くも残っているのだから、今年一年をふりかえるのは時期尚早に過ぎるのだけれど、今年新しく出会った作家として確実に上のほうにランクすると予想されるのは重松清さんである。
一番最初に読んだのは直木賞受賞作『ビタミンF』(新潮文庫、感想は7/28条)であるが、たかだか二ヶ月ちょっと前のことに過ぎない。それ以来見つけ次第重松さんの本を買いこんで、「読み惜しみ」する私にしては異例の早いペースで読んできた。
現代の家族を書かせて重松さんの右に出る者はいない。この場合の「家族」というのは、親が四十代、子供が思春期くらいまでの比較的若い家族を想定している。
小説ということではないが、家族を書かせて右に出る者はいないといえば、エッセイの分野でそれに該当するのは目黒考二北上次郎、以下目黒さんに統一)さんだ。目黒さんの場合新しく出会ったわけではないので再発見ということになるが、『活字学級』(角川文庫)・『記憶の放物線』(本の雑誌社)と読んできてその思いを強くした(感想はそれぞれ7/14、9/19条)。だからきっと目黒さんは重松作品を高く評価しているに違いない。
そんな二人のコラボレーションはないのかと思っていたら、やはりあったのだった。それが重松さんの短篇集『日曜日の夕刊』*1新潮文庫)である。解説が目黒さん(北上名義)なのである。おまけにカバーイラストは、川本三郎さんの『青のクレヨン』(河出書房新社)などでお馴染みの加藤千香子さんのパステル画。何と理想の組合わせであろうか。
さて本書収録の短篇12篇は、いずれも期待を裏切らない重松調の家族物語が多い。三十代後半の夫婦が直面している家族の問題がさまざまな角度から描かれている。一篇に少なくとも一箇所必ず目頭を熱くさせるようなフレーズが目に飛び込んできて、電車で読みながら困ってしまった。
わけても感動的だったのは「寂しさ霜降り」「さかあがりの神様」「後藤を待ちながら」「卒業ホームラン」の4篇。解説で目黒さんがあげられている作品と一致しているのが、偶然とはいえ嬉しかった。
いやもう「まいりました」のひと言に尽きてしまうのである。一番記憶が新しいこともあるけれど、一番最後の「卒業ホームラン」を読んで胸にこみ上げてくるものがあり、さらに追い打ちをかけるようにこの作品を論じた目黒さんの文章を読んで目頭が熱くなった。降車駅に到着したとき、目を潤ませながら顔を伏せて電車から降りたほどだ。
「卒業ホームラン」は、少年野球の監督をする元甲子園球児の視点で語られる。息子にグローブを買ってあげたことが契機となって、近所に住む息子の友人達と野球チームを結成し、自分は監督になった。ところが息子はまったく上達しない。
チームは19連勝中。六年生の最後の試合、もうこれで少年野球から卒業だという試合にもかかわらず、監督の父親は二十連勝を目指して泣く泣く息子をベンチ入りメンバーからも外してしまう。それなのに息子は…。ああ、こういうふうにあらすじを書いていても目が自然と潤んできてしまう。
試合は結局大敗した。そうとわかっていたならば、息子をせめて試合に出してやりたかった。試合終了後の誰もいないグランドで、父は息子をバッターボックスに立たせる。その場面。

徹夫(父―引用者注)はマウンドの土を均し、ボールをこねて滑りを止めた。たとえば山なりのスローボール、そんなものを投げるつもりはない。レギュラー組の打撃練習のときと同じように、速球を投げ込んでやる。それが、野球が大好きな少年に対する礼儀だ。(458頁)
このシーンを読んで気づいた方もおられるだろう。山口瞳さんと息子正介さんのエピソードを。
これについては、山口瞳さんの『続礼儀作法入門』(新潮文庫)に寄せられた正介さんの解説「門前の小僧」が詳しい。このエピソードは山口ファンの間では有名らしいから、あるいは重松さんはこの話を頭に思い浮かべながら上のシーンを書いたのではあるまいか。坪内祐三さんの表現を借りれば(「平成ヒトミズム宣言」、『小説新潮』本年四月号所収)、このときの重松さんは「ヒトミが入っている」状態だったのである。
ところで目黒さんは本書をどのように評価しているのか。まず重松清の小説世界全体を評してこのように言う。
我々の生活がそうであるように、いくら努力してもどうにもならないことはたくさんあり、そういう徒労の積み重ねの中で人はどう生きていくのか、ということに対する解答は物語のなかにないのだ。解答はいつも我々の中にある。行動ではなく、感情のなかにある。その風景を、重松清はいつも鮮やかに描き出すのである。
そして重松さんの小説世界を語る言葉として出される「ノスタルジー」について、重松清の小説が与えてくれる懐かしさには、たんに過ぎ去った過去の風景が懐かしいという甘さがあるのではなく、過去に潜んでいた「力」があるという。
我々の現実の生活は、雑多な感情には目をつぶり、一つの感情だけで割り切らなければやっていけないが、しかしそういう私たちにも、さまざまな感情を同時にかかえて、その中で必死に選択していた日々があったのである。そんな生活は辛いから、なんとか一つの感情だけで割り切れるように変化して、今では知らん顔をしているが、私たちの中に眠る必死の日々を、重松清の小説は巧みなエピソードを積み重ねて蘇らせるのだ。だから、いつもむくむくと元気が出てくるのだ。
私は重松さんの小説を読んで、我がノスタルジーの「甘さ」だけを思い起こそうとしていた。しかしそうした感情に浸りつつも、ノスタルジーでは説明できない何かが重松さんの小説世界にあると感じ、言葉にできないでいた。それが見事に説明されている。
重松さんの小説を読むと、「さまざまな感情を同時に抱えていた」日々のカオス的な力がよみがえってくる。一つの感情だけを残して捨て去り忘れ去ってしまった言葉に不意をつかれて思わず目頭が熱くなる。その仕掛けを解き明かした目黒さんの解説を読み、「卒業ホームラン」での「忘れかけていた言葉」を思い出してふたたびこみ上げてくる。
語り口、構成が群を抜いてうまく、宮部みゆきさんと双璧であるとも書かれている。「現代エンターテインメントの最高水準を知りたければ重松清を繙けばいいのだが、本書はその恰好の見本といっていい」と結んであって、この大絶賛には私もまったく異論がない。