戸板康二と日本語

戸板康二ダイジェスト”のふじたさん(id:foujita)とメールのやりとりをしていて、山本夏彦さんの「かわいそうな戸板康二」(『「社交界」たいがい』文春文庫所収)というエッセイの教示を受けた。以前読んだはずなのだが忘れてしまっているので慌てて読み返してみたところ、これがまた名篇なのである。
この文章は基本的に矢野誠一さんの『戸板康二の歳月』(文藝春秋)を読んでの感想なのだが、タイトルが思わせぶりだ。山本さんは戸板さんの何を「かわいそう」と言っているのか。
端的にいえば現代に生を享けたことにである。芝居の台詞が常識として庶民の日常会話のなかに登場しなくなったから、それらを一から説明しなければならない世の中に劇評家として生きざるを得なかった戸板さんに「かわいそう」とつぶやく。
また山本さんは「戸板は万太郎とちがって江戸訛りは使ってない。これも故意である」と書いている。この話は『完本 文語文』(文春文庫)に収められた「言い回しのほう」でも触れられている。江戸訛りの言葉を万太郎はわざと作品中で使っているのに対し、戸板さんは「知っていても使うまいとしている」と断ずる。
このエピソードは山本さんの推測なのかと思っていたら、どうやら直接の交友に裏打ちされたものであるらしいことを知った。山本伊吾『夏彦の影法師』(新潮社、10/2条参照)のなかに戸板さんが一箇所だけ登場する。

平成五年に亡くなった演劇評論家戸板康二さんは、父と同じ大正四年生れ。“四年会”と称し、今はすでにないが四谷の「エフ」という店でよく一緒に飲んだ仲だ。(160頁)
二人は知り合いどころか飲み仲間だったのである。酒の肴としてこうした「ことぱ」に関するあれやこれやの話が登場していたのかもしれない。「戸板康二日記」の公刊が待たれるところだ。
江戸訛りの言葉を知っていても使わない。この態度からは、戸板さんが言葉の問題に対して敏感であったということが透けて見えてくる。たまたま戸板さんの『芝居名所一幕見―舞台の上の東京』(白水社)を読んでいて、戸板さんと日本語の関係について思いを馳せていたときだっただけに、山本さんの議論はとても興味深く受け止められた。
ところで『芝居名所一幕見―舞台の上の東京』はこれまでそこに掲載されている昭和20年代の東京の写真と舞台写真を「眺める」だけで、「読む」ということをしていなかった。購入したときに「文庫化されない理由」として本書ついて書いたので参照されたい(旧読前読後2001/1/8条)。
本書の内容についてはいずれ詳しく触れる機会があるだろうから*1、ここでは上記の日本語との関係という点についてだけ書いておきたい。というのも、本書が正字旧かなで組まれていることにひっかかったのだ。
刊行されたのは昭和28年(1953)。戦後直後(1946年)に行なわれたいわゆる「国語改革」のあとだから、新字新かなで組まれていても不思議ではない。「国語改革」のつめあとと言えば、本書中に登場する「浄瑠璃」という言葉がすべて「浄るり」と表記されているのは当用漢字表と深い関係にあるとおぼしい。調べてみると果たして「瑠」も「璃」も当用漢字表には見あたらない。
もとより『芝居名所一幕見』の初出は産経新聞だからもとは新字新かなであったのではないか。産経新聞という場所に連載されていながら、また「浄瑠璃」を「浄るり」としながら、単行本の基本は正字旧かなであることがいっそうの興味をあおる。
むろん印刷会社の事情(正字が組めるか否か)というのも考えねばならないファクターだろうが、福田恆存丸谷才一両氏のごとき徹底したものではなかったにせよ、ここに戸板さんの日本語表記に対する信念を見てとれないだろうか。江戸訛りに対する敏感な対応をあわせ考えると、一概に的はずれではないとは思うのだが。
戸板さんの「国語問題」に関する文章がないか探してみたけれど、私が所持する著書からは探し出すことができなかった。実際表だっての発言はないのかもしれない。
この時期前後の戸板さんの著書を検せば、正字旧かななのは、『劇場の椅子』(創元社、1952年)、『歌舞伎への招待』(暮しの手帖社、1953年)、『演劇・北京―東京』(村山書店、1956年)、『忠臣蔵』(創元社、1957年)、『卓上舞臺』(村山書店、1958年、これはタイトルも正字だ)。
対して新字新かなは、『歌舞伎歳時記』(知性社、1957年)のほか、『街の背番号』(青蛙房、1958年)を見いだしえたのみ。
サンプル数は必ずしも多くないから不正確なのだが、概して1960年代以降は新字新かなにシフトするようだ。今後さらに多くのサンプルを得、戸板さんの日本語に関する文章の探索しだいで愚説の当否がわかるだろう。ひとまず素材のみ提示して後考にゆだねることにしたい。

*1:拙稿「五〇年後の『芝居名所一幕見』」(『BOOKISH』6号)参照。