第49 鞭打たれつつ一ツ橋界隈

東京国立近代美術館で開催中の「野見山暁治展」に行ってきた。ここを訪れるのは初めて。これまでこの建物が面している紀伊国坂をもう少し登った同じ側にある国立公文書館には仕事で何度も来たことがあるが、美術館は素通りばかりしていた。
野見山暁治という画家の存在を意識したのはちょうど一年前のことである。池袋リブロで開催された“「sumus」が選ぶ秋の文庫・新書100冊”の小冊子で、野見山さんのエッセイ集『四百字のデッサン』が紹介されていたことをきっかけに、この本が日本エッセイスト・クラブ賞を受賞していること、野見山さんは田中小実昌さんの義兄にあたることなどを南陀楼綾繁さんに教えていただいたのである(2002/10/14条も参照)。今回その作品に初めて接することになる。
野見山さんの作風を一言で表現すれば「抽象」である。対象は身近なモノや自然なのだが、それらを原型をとどめぬほどとことんまで解体しつくす。あるところは殴り書きのようなタッチで、また絵の具のたれも作品のなかに一体化させる。そしてその作風が、新しくなるにつれ、すなわち年齢を重ねるにつれてダイナミックさを増し、キャンバスも巨大化する。
抽象画は正直好みではないのだけれど、野見山さんの絵は好悪を超越してただただ圧倒されてしまう。夜夢に出てきそうである。ひたすら圧倒され呆然とした頭で見回っていたせいか、「野見山暁治展」を見たら腰が痛くなってきてしまった。
しかしせっかく来たのだからと常設展も見ることにする。二階から四階の3フロアにわたって、近代日本の洋画の名品がずらりと展示されている。ただでさえ「野見山暁治展」でくたくたなのにもかかわらず、常設展をひととおり見おえた時点で疲労困憊の極に達した。
それでいながら音をあげずに最後まで見ることができたのは、疲れを忘れさせるような名品が数多く展示され、それらが疲れてきた頃に目に飛び込んできては身体に鞭打ってくれたからなのだ。
四階は明治から戦前までの絵が展示されている。たとえば鏑木清方の屏風絵。また坂本繁二郎の馬の絵、村山槐多の「バラと少女」。今回私の心の琴線にひっかかったのがこの坂本繁二郎である。今後要注目。
さらに萬鐵五郎、村山知義のオブジェのような「コンストルクチオン」のモダン、藤田嗣治の繊細なタッチ、さらにさらに、長谷川利行「新宿風景」。夜の町という新宿の印象を百八十度転換させる明るい色彩の、昼の町というべき絵である。特集コーナーでは梅原龍三郎の絵がずらりと並ぶ。
三階には戦前から60年代まで。前田青邨「かちかち山」という巻子装の戯画は六代目菊五郎に贈ったという識語がある。また靉光、そして嬉しいのは松本竣介「Y市の橋」を見ることができたこと。洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮文庫)のなかの「松本竣介の風景(二)」において、横浜駅近くの風景であることが明らかにされた絵である。長谷川利行松本竣介の絵はとくにじっくり見た。写真コーナーでは細江英公の「薔薇刑」に図らずもお目にかかった。
二階のテーマ展示は「美術と音楽」。音楽と関連づけられる絵が展示されている。ここではシャガールパウル・クレーカンディンスキーら外国人の絵のほか、小出楢重「ラッパを持てる少年」を見ることができたのが収穫。
国立美術館は当たり前すぎるという理由で自然遠ざかっていたのだが、当たり前、定番だからこそ見るべき絵が数多く収蔵・展示されるのだということをいまさらながら認識した。時々足を運んでゆっくりその空間を味わいたいと思わされる。
帰りに野見山展のミュージアムショップにて、野見山暁治さんの『四百字のデッサン』(河出文庫)を首尾よく入手した。九月三十日の三刷とあるから、この展覧会に合わせて重刷されたのだろう。
今回疲れた身体に鞭打ちながら足早に展示を見て回ったのは、このあとも予定が入っていたからだった。数日前に“鹿島茂教授の仕事部屋”にて、共立女子大学公開講座(シンポジウム)があり、そこに鹿島茂藤森照信森まゆみという私の大好きな三人の方が出られるという情報を知った。
これは放っておけない。もとより今日は美術館に行く予定を立てていたこともあるし、竹橋にある美術館と一ツ橋の共立女子大学は指呼の間にある。美術館を見て昼になり、共立女子大へというスケジュールが一瞬で組み上がった。
シンポジウムのテーマは「人と本の空間:神田―今と昔―」というもの。共立女子大もキャンパスを構える神田(神保町)という町の歴史と将来を考えようという内容である。出席者は上記3人に、浮世絵などを扱う古書店大屋書店の店主で神田古書店連盟会長の纐纈公夫さんを加え4人。
今回もまた、建物に入ってエレベーターを待っていると、鹿島さんと藤森さんお二人もそこにいらして、一緒のエレベーターになってしまってドキドキした。どうも二人は間違って最初共立講堂の方に行ってしまったらしく、担当の方にブツブツ文句を言っている。藤森さんはともかく、鹿島さんは自分の勤務校でしょうに。
さて、話は鹿島さんの司会ではじまったが、江戸から明治の世の中に変わった時に神田はどう変化したのか、さらに関東大震災・戦争、学生運動、バブルそれぞれの時期の神保町という町の記憶をたどりながら、神保町という町の地理的特質を明らかにする、知的刺激に満ちたものだった。
話は多岐にわたって要約不能だが、印象に残ったものだけ以下に摘記する。

  • 神保町にかつて多かった布地の店・テーラーがいまのスポーツ用品店の原点(纐纈)
  • 日清戦争の結果として30万人の清国留学生が来日し(なかに周恩来魯迅も含まれていた)、彼らが神保町に多く下宿したため、現在でも神保町には中華料理店が多いこと(藤森・纐纈)
  • 谷崎の「美食倶楽部」の舞台となった中華料理の店も共立女子大の裏手に設定されていること(鹿島)
  • 震災後澁澤栄一は一街区単位での建物復興を図ったこと。建築物の許認可権を握る警視庁のほうから、三階建てを見かけ上二階に見せる「マンサード」スタイルにするよう指導があったこと(藤森)
  • 太平洋戦争で神田がほとんど焼けなかったのは大学があったからか(藤森)/京都と神田には落とすなというアメリカ軍上層部の思惑があったという噂あり(纐纈)
  • 古書店靖国通りの南側に集中しているのは、たんに北向きのほうが土地が安かったからで、本が日に焼けるからというのは結果オーライにすぎない(纐纈)
  • 中央大学が郊外に移転したのが神保町が変わった契機になること(鹿島)
  • いまの大学生は、郊外のキャンパスで1・2年次を過ごし、そこでは飲食店はキャンパス周辺にほとんどないため、昼を学生食堂で済ます癖がついてしまっている。そのため都心部のキャンパスに来ても外の飲食店で食事をしない学生が多く、学生相手の飲食店が衰退している(鹿島)
  • 神田神保町の古書価が高めなのは、「価格は本の保証書」であるからであり、値段に信用が含まれているからである。ネットだとそうはいかない(鹿島)

最後の鹿島さんの発言「古書価は本の保証書」であるというのにはなるほどと頷いた。実際自分の手にとって古本を買う。それが理想なのである。