いのちのはての

運良く戸板康二さんの『万太郎俳句評釈』*1富士見書房)を手に入れることができたので、さっそく読み終えた。
俳句の「評釈」といって思い出すのは、露伴の『評釈猿蓑』である。書棚の“露伴コーナー”から岩波文庫版を取り出してめくってみたが、戸板さんの本とは趣が違う。むしろ露伴のほうが「評釈」の正道なのだろう。戸板さんの場合は、対象の久保田万太郎に直接師事し謦咳に接したのだから、俳句を通した久保田万太郎回想記であり、人物論となっている。
戸板さんと久保田万太郎といえば、傑作評伝久保田万太郎(文春文庫、旧読前読後2002/1/30条参照)がある。『万太郎俳句評釈』の「あとがき」で、「二十数年前に「久保田万太郎」という評伝を書いたが、そのころわからなかった私生活の或る部分が、今度わかったりもした」とあって、その意味で本書は『久保田万太郎』の続編であり補遺であるといえよう。「私だけが知っている話も、だから、この本の中には、いくつかある」というから、貴重だ。
私は久保田万太郎の俳句が大好きだ。万太郎俳句のどこがそんなに自分の好みに合うのだろうと、本書を読みながらいろいろと考えた。その一つは、たぶんマニアックで具体的な点にあるのだろうと思う。
たとえば、藤原龍一郎さんが『BOOKISH』第5号で付句というユニークな試みをされている、安藤鶴夫『落語鑑賞』で取り上げられた落語の噺にちなんだ連作俳句12句や、戦後初の「忠臣蔵」通し上演が行われたときに各段にちなんで詠んだ連作9句など、通ごころをくすぐるような道具立てに惹かれるのである。
前者の『落語鑑賞』に寄せた連作俳句は本書で全句紹介されているが、戸板さんはこれを「はなしの筋とつかずはなれず、その季節感、登場人物の姿などを、ツボをおさえて、句に仕立てた技巧と、万太郎の積み重ねた蘊蓄から生れた」「万太郎の連作の白眉」と絶賛する。
万太郎俳句の代表的作品といえばあがるのが次の句だろう。

湯 豆 腐 や い の ち の は て の う す あ か り
私もこれを代表作とすることにやぶさかではない。言葉の配し方はもちろん、この句が詠まれたきっかけである伴侶の死、また、この五ヶ月後に襲う万太郎自身の急逝という外側の出来事を重ね合わせれば、ますますこの句の良さが身に沁みてくるのである。
ところが今回本書を読みながらこの句を舌頭で転がしているうちに、この「絶唱」と呼ばれる代表句が、万太郎俳句の正統とは必ずしも言えないのではないかということに気づいた。
「湯豆腐」という季語に「いのちのはて」「うすあかり」という単語の結びつきが抽象的で、先に紹介した連作俳句のような通好みの技巧を弄した句からは対極にあり、すぐれて感覚的なのである。たとえば同じ「湯豆腐」を詠み込んだ他の句を見てみる。
湯 豆 腐 や 持 薬 の 酒 の 一 二 杯
湯 豆 腐 の ま だ 煮 え て こ ぬ は な し か な
湯 豆 腐 の 火 に ま づ 心 く ば り け り
いまあげた3句からは、湯豆腐の鍋を囲んだ風景が眼前に彷彿とする。それらに比べて湯豆腐の現実感が薄い「いのちのはてのうすあかり」が代表作となっているところに、万太郎俳句の奥深さがあるのだろうか。