評価という言説

日本美術の二〇世紀

『is』というポーラ文化研究所が出しているユニークな季刊雑誌があった。「あった」と過去形で書かなければならないのが悲しい。去年の9月、第88号(特集:終わり方の研究)をもって終刊したのである。
私はこの雑誌を第53号から毎号購入していた。第53号(特集:メタファーとしての壁)が出たのは1991年9月。実に十一年も買い続けていたのか。
いま同誌を収めているマガジンラックを見てみると、第71号(特集:失われた書物)と第87号(特集:復元・再現の思想)の二冊だけ欠けている。買わなかったはずはないので、きっと別の場所に埋もれているのだろう。とはいえ気にはなる。
この雑誌の連載からは、種村季弘『一角獣物語』(大和書房)、高山宏『テクスト世紀末』(ポーラ文化研究所)、鹿島茂『人獣戯画の美術史』(同)、木下直之『世の途中から隠されていること』(晶文社)といった魅惑的な書物が誕生している。
このほど出た山下裕二さんの『日本美術の二〇世紀』*1晶文社)を読んでいて、これももとは『is』に連載されたものであることを知って驚いた。見ると終刊まで連載は続いていた。いかに11年も買い続けていようと、「購入」だけにとどまって「購読」まで到達していなかった事実を突きつけられて、われながら恥ずかしい。
さて本書『日本美術の二〇世紀』はすこぶる刺激的な本であった。帯にもあるが、本書は「美術史」というよりも「美術評価史」の本である。日本美術の「名品」といわれる作品にこれまでどんな評価が与えられてきたのかという言説をめぐる本である。
評価といってもいろいろあって、学者による権威付け、国家や政治家によるもの、マスメディアによるもの等々。雪舟源頼朝像・高松塚古墳・雪村・若沖・白隠等伯についてかぶせられてきた「評価」のベールを一枚一枚剥がして、作品の実像に一歩でも近づくための道案内をしている。

「名画」とされているものであればあるほど、その絵と自分との間に介在する言葉を注視し、その言葉を相対化することが難しくなる。自分が蓄積したイメージに刷り込まれた言葉、その言葉に潜んでいる「時代」の空気を追体験することは大切だと思う。(55頁)
まっさらな頭と心で美術品を見ることは、たぶん無理だ。評価がなされた「時代」の空気を追体験することだけでも、作品を見る目は違ってこよう。