山口文学における馬名の研究

競走馬の名前にはユニークなものが多い。日本独特の命名法として真っ先に浮かぶのは「冠名」である。馬主によって「サクラ」とか「シンボリ」「トウカイ」「メジロ」といった接頭語(冠名)が最初にあって、そのあと個別的な単語がつづく。
日本の場合カタカナ九文字までと決められているから、冠名で字数を費やしてしまうと、そのあとが苦しくなる。かつて「マチカネタンホイザ」という馬がいた。本来であれば「タンホイザー」なのだろうが、九文字という字数制限のため末尾の長音符が省略されてしまった。
生産者・馬主の最大手社台グループの馬はこうした冠名を用いず、それぞれに洒落た名前が付けられている。考えるほうも大変だろう。
最近馬名は外国語が主流だが、たまに「クロフネ」などという純日本的(?)な名前を目にすると、つい応援したくなる。外国語が名づけられた馬も、香港に遠征すると馬名はすべて漢字に変換されるから、それを見ていると面白い場合があるのである。
山口瞳さんの草競馬流浪記』*1新潮文庫)を読んでいると、山口さんは馬名を正式名たるカタカナで表記するだけでなく、香港競馬のように漢字を当てて正式名称をルビとして振るようなことをしている。
漢字を当てるのには法則性があるわけではないらしい。とくにこの章以後と時間で区切られるわけでなく、一つの章にカタカナ表記と漢字表記が混在する場合がある。漢字(つまり日本語)に訳しやすいものとそうでないものというわけでもない。地方競馬だけ漢字というわけでもない。丹念に読めば何か一定の法則が見つかるかもしれないけれど、気分次第で漢字を当てていたと考えるのが案外正解と言ったところなのではないか。
たとえば、アシヤムサシ→芦屋武蔵、エバラセンプー→荏原旋風というのは“単純当字型”。実際名付け親もこのような漢字が当てられることを想定していたのかもしれない。
また、ミスターシュホウ→主砲氏、ゴールデンリサ→黄金理沙は“単純翻訳+当字型”で面白味がないのに対し、フクリオー→複利王、センキローゼン→疝気薔薇、ゴンタマリア→権太聖母などは同じ単純翻訳+当字型ながら遊び心が感じられて楽しい。
ギャルソンベビー→青年赤坊なども青と赤の対比という意図を汲み取ることができる。チビセント→短小聖、ピッチャードクイン→水差女王は多少捻った“意訳型”と言える。
ピンクフロイド→桃色心理学者、ナンシンネロ→南進暴君、アイアンガール→英国女首相は“固有名詞型”。アイアンガールを英国女首相とするところからは書かれた時代性がうかがえる。
スカメガミ→雄亀神、シマノシヅカ→縞熨斗塚、スノータガミ→雪他我身あたりは、その字面から当然連想される漢字をあえてずらした“ワープロ誤変換型”とでも名づけられようか。
上記のような名づけを山口さんは喜々とした楽しんだ感がある。漢字が当てられていない馬と混在しているのは、漢語訳の難易度という理由だけでなく、山口さんがその馬名を見て直感が働いたか否かという問題であるとも考えられる。どういう単語に山口さんが反応するのか、それを推し量るいい素材なのかもしれない。
いい素材といえば、リッチボーイ→成金少年というのは、一見単純な翻訳に見えて実は一筋縄ではいかない問題も潜んでいる例ではなかろうか。そこに山口さんの思想が見え隠れしているかもしれないからである。リッチ=成金という観念を持っていたと考えるか、あるいは、リッチボーイなる存在はすべて成金でしかないという考え方であったのか。
馬名に漢字を当てるというのは、この『草競馬流浪記』に始まったことではない。『世相講談』(下巻、角川文庫版)所収の「待てば海路」(初出は1966年)でも同じだ。そこではシバハヤ→芝早、テイトオー→帝都王、ブゼンホープ→憮然希望といった単純当字型、単純翻訳+当字型のほか、アポオンワード→孤立既製服という固有名詞型も見られる。
面白いのは上記の分類に見られなかったタイプもあること。シェスキイが「正助」という山口文学にお馴染みの人名に変換されている。これは音読型か。
山口さんの競馬に関する文章をさらに博捜すれば、もっと面白いことがわかってくるかもしれない。