映画評論の方法

銀幕の東京

買われてすぐ読まれる幸福な本があるいっぽうで、昨日の『海軍』のように二年間寝かされる本もある。読むタイミングを失すると積ん読の海の底に沈んで浮上のチャンスがなかなかめぐってこない本の何と多いことか。
次に何を読もうかと書棚を見回したとき、ふと目に入ったのは川本三郎さんの『銀幕の東京』*1中公新書)であった。
この本は、他の川本さんの単行本や文庫のある場所からひとり離れ、座右ともいうべき位置に収まっていた。これまでも旧作日本映画を見たときなど、何度もめくりかえすような本だったからである。しかしながら通読はしていなかった。
本書が刊行されたのは1999年5月。むろんそれ以前から川本ファンであったから、本書も発売直後に購入したと記憶している。それから4年あまり、拾い読みの便宜に供されるだけだった本書がついに陽の目を見た。
購入当初、川本三郎という著者、東京という町には興味があったけれど、日本映画をほとんど観ていなかった。本書のたどった運命は、こうした私の興味の変化に大いに翻弄されている。
おもに川本さんに導かれて日本映画を観るようになり、この『銀幕の東京』を読むと、東京オリンピック以前、大きな都市改造が加えられる前の東京の町並みを、映画を通して自覚的に撮り残しておこうと意図した監督が多かったことを教えられる。
それにしても本書における川本さんの筆致の弾んでいること。この映画にはこれこれの場所が登場している。この建物はあの映画にも登場する。この町はこの映画とあの映画の舞台になっている、などなど。次から次へと東京の町を舞台にした映画のワンシーンが引き合いにだされて倦むことがない。
いったい川本さんはこれらの情報をどうやって整理しているのだろう。本書を読みながら思ったのは、内容とは少しかけはなれたこんな些末な疑問であった。
映画を観ながらメモをとり、あとでカード化するのだろうか。でも映画館で観たという映画は、場内が暗いからそうは行くまい。また、映像がつねに流れてゆく映画の細かなワンシーンの情報を記録することは、活字媒体とは違った困難がつきまとう。いちいちビデオを止めて、そのシーンを解析するのだろうか。
好きなものをこのように研究対象として切り刻んでしまって、興が殺がれないのだろうか。映画評論家に聞いてみたい疑問である。