起承転結獅子文六

海軍

獅子文六の『海軍』*1(中公文庫)を読み終えた。この作品もまた、これまで読んできた獅子作品の面白さから外れるものではなかった。電車本にしていたのだが、電車に乗っている時間が短く感じられたほど。
奥付を見て驚いた。刊行されたのが一昨年の8月だったからだ。買ってから丸2年間も読まずにいたとは。
本書は私が買った獅子作品のなかでも比較的早い部類に属する。その後に購入した『てんやわんや』以下の作品を読むのが先になってしまうという逆転現象が生じてしまったのは、ひとえに私の読まず嫌いと誤解に基づく。
もともと私は戦記物(あるいは戦争文学)を好んで読む人間ではない。それなのに本書を購入したのは、当時獅子文六に少なからず興味を抱き始めていたからであり、彼の作品のなかでも異色作という触れ込みで、それが珍しくも文庫に入ったからなのである。「とりあえず買っておこう」、そんな軽い気持ちだった。
その後今年に入って獅子作品を立て続けに読んでその面白さに魅了された。それではこの『海軍』もものは試し、読んでみようかと思い立ったのである。そして読みはじめてすぐ、本書を戦記物とみなしていた先入観はまったくの誤りであったことに気づいた。そしてまたまた物語の面白さに引っ張られていった。
本書は、真珠湾攻撃のさい特殊潜航艇を操って最期を遂げた「軍神」横山正治という人物をモデルにしているという。物語のなかの主人公は谷真人という名前だ。鹿児島に生まれ育ち、海軍を志した彼は、親友牟田口隆夫と一緒に海軍兵学校の試験を受け、見事に合格して士官候補生となる。
いっぽう隆夫は肺に疾患が見つかり、兵学校はおろか翌年挑戦した海軍経理学校までも体格検査の段階ではねられてしまう。失意のうちに隆夫は鹿児島から出奔する。
鹿児島の若者たちのみずみずしい青春群像、江田島にある海軍兵学校での若き海軍軍人たちの規律正しく爽やかな生活が事細かに描かれ、それらを読むうちにこれが戦争を背景にした小説であることを忘れてしまうような錯覚をおぼえた。戦意昂揚、神体護持といったイデオロギーとは無縁である。この点がいい。
本作品が新聞に連載開始されたのが昭和17年1月。つまり真珠湾奇襲のわずかひと月後にすぎない。戦勝に沸きたった当時の雰囲気が物語を介して伝わってくるなか、その通奏低音として見事に散った海軍軍人たちの鎮魂というテーマがひそんでいるものと思われた。
これ以後戦局は悪化の一途をたどり、戦後、戦争末期の戦死者には「犬死に」のような評価すら与えられてしまういっぽうで、この時点で書かれた小説は幸せであり、また取り上げられた軍人も幸せだというべきだろうか。
戦争がどうのこうのと言う前に、戦勝ムードで書かれた「戦記物」ならぬ戦争文学が文庫本になってわたしたちに供されたことは、意味のないことではない。
読んでいて気づいたのは、この小説が起承転結の原則をきちんと踏まえていること。真人と隆夫の鹿児島での少年時代が「起」、真人の兵学校入学と江田島での生活までが「承」。
ここまで海軍士官候補生の生活描写を読んできて、多少だれてきたかなと思うやいなや、物語は一転する。絶望感を胸に抱いて出奔した隆夫は実は東京に出てきて画家を志していたのである。海軍への憎しみを抱きながら、絵画で身を立てようとする隆夫の生活が描かれることで物語のドライブ感はふたたび増す。
隆夫と真人が偶然銀座で再会してから、隆夫は海軍に対する熱意をよみがえらせる。彼が軍艦を描いた絵が海軍大臣賞を受賞し、真人の斡旋で海軍省報道部嘱託として、他に類を見ない「海軍画家」として活躍の場を得、そこで真人の訃に接するという二人の悲しい別れの部分が「結」にあたるだろう。
そうか獅子文六岩田豊雄の小説が抜群に面白く安定感があるのは、劇作の要諦である起承転結が、小説を書くさいにも常に念頭におかれ、導入されたからなのか。劇作を経て一躍人気小説家の仲間入りをしたという経緯を十分に知っている人であれば至極当然の事柄に属するだろうが、私にとっては大発見であった。
今後獅子文六の小説を読むときには、こうした起承転結という筋立てを追うという楽しみがひとつ増えた。
先月、『海軍』執筆の裏話をはじめ、獅子が海軍について書いた文章を集めた『海軍随筆』が中公文庫に入った。これを読むのは、たぶん今をおいて他にないだろう。