教養主義の没落

教養主義の没落

二日連続私の大学時代の話からで恐縮だが、私の世代はおそらく大学の「教養部」で一般教養科目を学んだ最末期の世代にあたる。
私の大学の場合、2年間教養部に在籍し、3年から各研究室に所属して専門教育を受けた。私が3年に進級してほどなく教養部は解体されたはずである。私の大学にかぎらず、ほとんどの大学が時期を前後して「教養部改革」を断行した(むろんそれ以後も大学には「一般教養科目(パンキョウ)」というかたちでカリキュラムが残存する)。
そういう意味では、わずかに大学に残っていた「教養主義」の残滓を感じ取った世代ということができようか。もっともそんなことはいまだから言えるわけで、当時の私はこの一般教養が大嫌いであった。
せっかく大学に入って専門的な勉強ができると思ったのに、なぜまた高校の延長のような科目を受講しなければならないのか。理系や語学はおろか、社会科学系の科目(社会学や心理学、政治学など)ですら真面目に受講しようとしなかった。おかげで教養部の成績は散々で、単位も進学ギリギリの数をあえぎながらやっと取得したのだった。
この教養部に対する侮蔑的な態度は、数年ののち悔悟に変化する。「あのとききちんとこの授業を聴いていれば」「あの科目を取っていれば」と何度悔やんだことか。悔やんでも遅い。やはり大学には一般教養は必要なのである。
侮蔑から悔悟へという変化のきっかけはたぶんあれだと想像がつく。岩波文庫創刊60年を記念して出された『図書』の臨時増刊号(1987年5月)で、各界の著名人がアンケートに答えて岩波文庫の「私の三冊」をあげた企画である。
同級の友人がけっこう岩波文庫を読んでいたことにも刺激されながら、この「私の三冊」を繰り返しひもとき、面白そうな岩波文庫を購入して読んだのである。やはり緑帯中心ではあったが、赤帯・青帯・白帯の本も多く買い求めた。
アンケートに答えていた方々の多くは、おそらく大学時代に教養主義的な教育を受け、その過程で岩波文庫を愛読したに違いない。20歳の私は、教養主義的なパワーに免疫がなかったゆえか、彼らの岩波文庫を語る熱意に影響を受け、一時期教養主義的読書(蒐書)に熱中したのである。
その10年後、岩波文庫創刊70年のときにも同様の企画があったけれども、これには惹かれなかった。私自身の変化もあるが、アンケートの書き手にも岩波文庫に対して教養主義的な接し方をしない人が多くなったからなのではあるまいか。教養主義のオーラがやはり教養部改革以前にはかろうじて残存していたとおぼしい。
竹内洋さんの教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』*1中公新書)を読みながら、以上のようなことを思い出していた。
本書は、大正期に旧制高校に発した教養主義と、戦後1950年代の学生運動と結びついたマルクス主義教養主義教養主義マルクス主義)の読書運動とを二重写しにしながら、「教養主義」の内実とその没落過程をたどった本である。
戦前の帝大においては、教養主義の牙城だった文学部は、学生父兄の職業に農業が多く、もっとも農村的だったという指摘は興味深い。逆に理学部は「新中間層的」「都市的」と規定される。つまり教養主義の殿堂帝大文学部は、農業出身者・地方出身者にとって敷居が高い学部でなく、親和的な学部だったというのだ。
これに対して、フランスの高等教育機関のデータや社会学ブルデューの議論が引き合いに出され、フランスはまったく日本とは逆の現象であることが明らかにされる。フーコーアルチュセールを輩出したエコール・ノルマル・シューペリウール(高等師範学校)は、地方出身者にとって敷居が高くよそよそしい場所だったというのである。
日本の戦後世代の学生を論じる場合、旧制・新制での教育制度の違いは避けてとおることができない。本書でも1章で、石原慎太郎高橋和己・黒井千次大江健三郎を例にとって旧制から新制への移行がそれぞれの学生時代にどのような影響を与えたのかが論じられているが、そこに付されている図を見ても、この移行が複雑すぎてわからない。
本書ではこのほか、50年代キャンパス文化、帝大文化、文化装置としての岩波書店などが素材として取り上げられている。新書にしては専門的な術語が多く、30代半ばにしてこうした術語が頭に入らなくなりかけているわが身が悲しくなった。
ショックだったのは、冒頭4頁において、リヤカーに和製英語、物を運ぶ二輪車。大八車とならんで当時よく使われていた」と注釈が付されていたこと。いまやリヤカーにも説明が必要な時代になりはててしまったのだろうか。