関西の没落

関西人の正体

いまでこそ完全に払拭されたが、大学に入ったばかりの頃の私には“関西人(弁)アレルギー”のようなものがあった。
これまでの36年の人生のうち、山形で生まれ育ったのが18年、大学入学後仙台で暮らしたのが12年。つまり30年間東北で暮らしたわけだが、東北地方自体に関西人に対する距離感があるように思われる。
いまから約20年前の山形では、関西人(関西弁を話す人)と出会うことは、外国人を見る以上に稀な経験であった。だから、仙台の大学に入学して、キャンパスで関西弁を耳にし、甚だしく戸惑いを感じた。
とりわけ私の年代は、共通一次5教科7科目・自己採点(二次試験受験は一大学のみ)の最後の年で、次の年から5教科5科目、A・B日程での受験が可能となる受験改革が行なわれた。
つまり、関西の人たちにとって、仙台(東北)の大学を滑り止めとして受験することが容易になり、実際に多くの関西人がキャンパスにあふれたのである。東北出身の友人たちと、関西弁への違和感を話し合っていたことを思い出す。
私が所属した学部では、研究室対抗の野球大会があった。隣のライバル研究室に、関西弁を話し、試合の時に何かとイチャモンをつけてくる年上の大学院生がいた。われわれは彼に「関西弁」とあだ名をつけた。いま思えばこれははっきりした関西人差別であろう。彼「関西弁」は、いまや仙台有名私大の助教授である。
井上章一さんの文庫新刊『関西人の正体』*1小学館文庫)を読んでいて、この東北vs関西の図式がみちのくプロレスを例に出して説明されていたので笑ってしまった。
というのも、ザ・グレート・サスケがリーダーたるみちのくプロレスにおいて、悪役として振る舞っていたのは、スペル・デルフィンと愚乱浪花というバリバリの関西弁を話すレスラーだったというのだ。東北において関西人は悪役。井上さんが知り合いの東北出身者にこのことを話したところ、よくわかるなあと相槌を打たれたという。
この『関西人の正体』は、巷にあふれる常套的関西人論を否定する試みである。笑い、ケバい、スケベー、納豆嫌いというよくある関西人の偶像を逐一破壊してゆく。
東京一極集中による関西圏の反撥的主張を廃し、関西は没落している、没落を肯定し、その先進地帯として、たのしい没落の仕方を指し示していこうと提案する。井上さんならではの刺激的な問題提起に満ちた本であった。