変わらないのはどちらか

日常茶飯事

山本夏彦さんの『日常茶飯事』*1新潮文庫)を読み終えた。もと中公文庫に入っていたが、このほど鹿島茂さんの解説が付され新潮文庫で復刊された。本書は、1962年に刊行された山本さんの処女コラム集であるという。いまから実に40年以上前に出た本であるわけだ。
解説を先に読むまでもなく、帯に「幻の処女コラム集」とあるから、読む前に知られてしまうのだが、もしこのことを知らないで読んでいれば、まさか40年前に書かれたコラムだとはまったく気づかなかったに違いない。それほど変わらないのである。
40年前から「ら抜き言葉」の非を論じているとは知らなかった。社会が変わらないのか、山本さんが変わらないのか。
私が山本夏彦さんの本を読むようになったのは亡くなる直前のことであり、亡くなってから文庫著作を集め出し、本格的に読み出した。とはいってもこれまで読んだのは数冊に過ぎない。そんな程度の私ですら「変わらない」ことを感じるのだから、この変わらなさは筋金入りである。
鹿島さんが解説を書いておられる本を読むと、その解説がピタリ的を射ているので、最初にこの解説を目に入れてしまうと自分の感想がそれに引きずられて困ってしまう。丸谷才一和田誠『女の小説』(光文社文庫)の場合が好例だ(2002/5/28条参照)。そして今回もこの呪縛をまぬがれることはできなかった。
鹿島さんは山本さんの「変わらなさ」について、原因が「既視感覚」ならぬ「未視感覚」(「こんなものはまだ見たことがないぞ」と感じる感覚)であるとして、次のように書いている。

山本夏彦のエッセイは、初めから「既視」で五十種類のどれかとわかっていながら、いざ読むと、「はてこんなものは一度も読んだことがないぞ」という「未視感覚」を感じてしまうのである。
本書は、以後40年間にわたって、無限のバリエーションで同じ思想・認識を伝え続けた山本夏彦が、その原型たる五十種類の思想をはっきりと示している唯一の本なのである。
「変わらなさ」と同じ言説の反復は紙一重だろう。反復であれば飽きて遠ざけてしまう。そうならずかえって惹き込まれるのは「未視感覚」ゆえだったのか。「変わらなさ」についてうまく丸めこまれたような気がしないでもない。