小説読みのスタンスが変われば

おめでとう

川上弘美さんの短篇集『おめでとう』*1新潮文庫)を読み終えた。
すぐ前に読んだのが、先日書いたように重松清さんの『ビタミンF』(新潮文庫)である。『ビタミンF』は現在自分が置かれている状況に近しく、物語自体にもリアリティがあるから、身につまされずにはおかない、そういった魅力があった。
その直後、それとは対極的といってよい、非現実味が多少混じった、自分の立場から大きくかけ離れるような物語に接して、重松清川上弘美という二人の作家の作風の違いを考えながら楽しく読むことができたのだった。
塩辛い物を食べた直後に甘い物を食べたときのように(まあ逆でもいいが)、重松作品のあとに川上作品を読むことで、川上作品の独特な味わいが際だったといえる。
『おめでとう』には12の短篇が収録されている。散文詩のような小品から、のち『龍宮』にまとめられる短篇に近い味わいの異類婚姻譚(「運命の恋人」)や、幽霊が登場する幻想的作品(「どうにもこうにも」)、また以前私が「妙齢女性の文学」と規定した『センセイの鞄』に近い作品まで、幅広い作風の短篇が詰め込まれている。
やはりこのなかでは、「妙齢文学」的作品が気になる。「いまだ覚めず」「春の虫」「夜の子供」「天上大風」「冬一日」「冷たいのがすき」あたりが該当するだろう。不倫恋愛の話が多い。上記のなかでは、「天上大風」の、論理的思考を標榜するバツイチOLの述懐に何ともいえぬおかしみがある。
解説の俳人池田澄子さんも書いておられるが、このなかで、元夫から宣告された「別れてくれ」という別れ言葉の「くれ」の語感にこだわって、その意味を女友達と議論しあう場面などは川上さん以外の人には書けないユーモアに満ちている。
いまこれら「妙齢文学」が、好悪ではなく、気になると書いた。重松作品を読んだあとだからとくにそう感じたのかもしれないが、ここで展開する妙齢女性たちの生態に理由のわからぬ苛立ちを感じたからだ。
これまでであれば、こうした雰囲気こそ川上さん独特のものと楽しんだはずなのだが、今回は少し違った。重松作品によって、小説を読むときのスタンスが自らの現実を尺度としたものになってしまったために生じたアレルギーのようなものかもしれない。