伊東忠太を語る

伊東忠太を知っていますか

ワタリウム美術館で開催されている「建築家・伊東忠太の世界展」では、関連する催しも多彩で、こちらも魅力的だ。先日そのひとつ「忠太の建築を巡るバス・ツアー」に参加したことについては、6/29条で書いた。
昨日また関連企画のひとつ「シンポジウム 伊東忠太が見たもの」を聴きにいった。パネラーは藤森照信井上章一鈴木博之の三氏。それぞれ著名な建築史家として、常日頃著書を愛読している方ばかり。だからこの企画はたいへん楽しみにしていたのである。これまで藤森さんや井上さんの講演などを聴く機会がなかったので、行く前から興奮気味であった。
美術館に入っていきなり驚く。受付に藤森さんがいらしたからだ。ちょうど藤森さんも到着したばかりだったらしい。まだシンポには時間があったので、入場券(1000円、期間中何回でも入場可)を買って展示室に行く。するとまたびっくり。藤森さんがいる。スタッフの方に持参のスライドを渡していたところだった。
とくに控え室があるというわけではなかったらしく、室内で会った知り合いの外国人研究者とおぼしき方とずっと立ち話をされておられた。その脇で忠太の展示物を見るという贅沢な時間。あらためて忠太の「絵葉書」に感じ入る。全部通して見ることに価値があるように思う。
そうこうしているうちに、今度は同じ展示室に井上章一さんまで登場。私よりちょうど一回り上(48歳)の方なのだが、青年のように若々しく私の方が老けて見えるのではないかと思うほど。この若さはどこから来るのか。藤森・井上両氏の雰囲気に圧されて、展示を見るどころではなかった。
実は、あわよくばサインを頂戴しようと今日のパネラー三人の著書を持参しており、始まる前に…と思わないでもなかったのである。ただお二方とも知り合いやスタッフとの話に忙しく、割り込むのは失礼と我慢した。
シンポは19時から21時まで二時間、会場は二階展示室に折りたたみイスを並べたもので、50人くらい入っていただろうか。大盛況である。パネラー席も客席から高い場所にあるわけでなく、客席とただ向かい合っているだけ。二列目に座ったため、三人のお顔を間近に拝見することができた。
まず美術館の方から三人の紹介があり、井上・藤森・鈴木の順で一人20分ずつ忠太のことについて話し、その後45分は三人の討論、残り15分は客席からの質問を受けるというかたちで進んだ。
口火を切った井上さんの話。
自身が育った京都で忠太の建物といえば平安神宮であり、そこでご自身も結婚式をあげたこと。結婚式をあげた夫婦のなかで、どれだけの人が忠太に思いを寄せていたのだろう(自分は思いを寄せていた)という話で笑いを取り、次に桂離宮を絶賛したブルーノ・タウトと忠太の微妙な関係についてお話された。どうもお互いに冷ややかな視線を送っていたらしい。
井上さんらしいのは、タウトが桂離宮を絶賛したときの訪日のさいに愛人兼秘書を同伴していており、妻の目から逃れて愛人と旅行をするという精神状態にあったため、桂離宮を絶賛したのではないかという指摘。つまりもし体調が悪かったら絶賛しなかった、美術鑑賞における精神状態の問題というのは意外に重要な研究テーマになりうるのではないかというのである。
桂離宮でなく最初に日光東照宮に行ったらそこも絶賛していたに違いないというオチまでついた。忠太はそのタウトを冷静な目で見ていたというわけである。
次の藤森さんは、忠太の設計した一橋大の装飾怪獣に注目する。通常大学建築の様式はゴシックであるにもかかわらず、一橋大はロマネスク様式が採用されている。なぜか。ロマネスクには動物が多く登場するからである。忠太はこの動物装飾を使いたかったがためにロマネスクを採用したとする。
ただし正統的なロマネスク(リチャードソン−曾根・中條系)の動物はライオンやワシという実在の動物なのに、忠太の場合わけがわからない非実在的怪獣が配される。
とくに注目されるのが、お互いに相手を噛み合っているという怪獣の存在で、藤森さんはそのルーツをキリスト教以前のケルトに由来するのではないかと推測する。それをヨーロッパの石造教会やノルウェーの木造教会にある装飾のスライドを見ながら説明された。
忠太はこのように、前近代的アニミズム志向があり、これは「座敷わらし」の伝統のある東北生まれゆえとする。近代化された明治日本に生きるなかで眠っていたアニミズムへの興味が、晩年に顔をのぞかせたというのだ。
最後の鈴木さんは、J・コンドルが忠太に及ぼした影響について語られた。コンドルは「地理的な様式」にこだわる建築家だったとして、上野の博物館にはイスラム風(ヨーロッパから見た東の様式)、また隅田川べりの建物にはヴェネツィア風を用いたという例をあげる。
コンドルは和風を取り入れることにも積極的で、仏教建築の華頭窓のデザインを建築物に取り入れた。忠太はコンドルから直接学んでおり、こうした方法論についても影響を受けたのではないかという。
ひととおり三人の話を終えた後はフリートーキングだったのだが、美術館の方が司会をするわけでもなく、まったく放っておかれたため、見かねた鈴木さんが司会役になって残り二人の話を引き出すというかっこうになった。
だからシンポジウムというよりは鼎談、いや、忠太と近代建築史にまつわる建築史家の雑談を拝聴するようなものだった。雑談だからこそめっぽう面白くて、肩肘張ったシンポジウムでなくかえって良かったと思っている。
そこでの雑談は多岐にわたるので要約不可能だ。
話が脱線してますます面白くなるという著書と同じような藤森さんの怒濤のような知識の奔流にたじろぎ、やわらかな京都弁で「くすぐり」を入れることを忘れないサービス精神あふれる井上さんの語り口に魅了され、この二人の話を冷静にまとめ、明快な言葉でお話をされる鈴木さんの話に感心する。二時間があっという間だった。
たとえば出た話として面白かったのは、「人間が想像不可能なものは作ることができない。想像可能なものをいかに組み合わせて(崩して)つくるかが問題だ」という忠太の方法論が、まさに江戸川乱歩の創作法と同じであるという鈴木さんの指摘。
また藤森さんは、同じ東北に生まれ、アニミズム的指向を持ち合わせていた伊東忠太今和次郎の親近性を説く。
井上さんが、動物装飾という点で、あるオランダ人に京都の町を案内したとき、薬局の前に動物が多くあることに驚かれたということや、祇園松方弘樹のタレントショップの前に今戸焼の狸の置物があり、その顔が松方弘樹になっていたことにさらに驚いたというエピソードをお話になり、これには場内大爆笑だった。
鈴木さんからは、忠太が戦後高齢になってからも大学に出てきて勝手に授業を始めてしまうので、困った学生たちは順番を決めて聞き手になってあげたという忠太の「ボケ老人」伝説が紹介された。
井上さんがここで茶々を入れる。ボケないとあんな壮大な建物はつくれない。藤森さんもその域に近づいているのではないか、と。藤森さんは「井上の阪神だって…」とつぶやいたのを聞き逃さなかった。
藤森さんは、忠太が内務省をバックにして戦前の大日本帝国の思想を建築で表現したにもかかわらず、自らはノンポリで通したということについて、物足りない、戦犯になったほうがよかった。まあ戦犯になっても巣鴨には行かなかったろうがと放言する。
話は忠太にとどまらない。コンドルや辰野金吾にも及ぶ。藤森さんは、コンドルがなぜ辰野金吾を後継者に選んだのか、洋風建築に和の要素を取り入れない実直な作風が明治の近代化にはふさわしいと考えたからであるとし、工部大学校第一期生辰野・曾根達蔵・片山東熊・佐立七次郎の卒論の内容を紹介する。
それを聞いていた井上さんは、コンドルは「遊び好きの都会人」、辰野は「上昇志向の田舎者」と規定、では忠太は…という話で米沢の田舎者のセンスについて話しが飛んだ。
質問コーナーで梅棹忠夫さんの話が出たとき、井上さんが、梅棹さんご自身は学問を習い事のように考えていて、それなのに時代の流れと自分の研究がぴたり一致して前に押し出されてしまった、人文科学系の学者は本質的に好事家なのだと主張されたのには微苦笑を禁じえなかった。
そこで藤森さんが、梅棹さんの「ベンガル湾大決戦説」を紹介。もし信長が本能寺の変で死ななかったら、西へと侵略をすすめ最後はベンガル湾でヨーロッパ勢と大決戦をしていたという爆笑の説である。
井上さんは、もしそうして信長が勝っていたら、今頃世界の共通語は関西弁になっていたはずと返し、藤森さんは手で自分の足をバシバシと何度も叩いて大爆笑する。居酒屋のノリである。
ここで大野晋さんの日本語タミール語起源説が井上さんから紹介され、まじめにやっていた学者が、そのままやっていれば今頃大家になっていたろうに、突飛な説を唱えたために変な学者と見られてしまう、忠太もその系列だし藤森さんも…としつこい。
このような和気藹々とした雰囲気だったこともあってか、終了後お三方とも気軽にサインに応じてくださった。
最初に井上さんに『パンツが見える。』(朝日選書)を差し出したとき、「お恥ずかしい」とのひと言。筆のようにサインペンをもってすらすらとお名前を書く。
次に藤森さん。シンポを聞いているときに『伊東忠太動物園』(筑摩書房)を持ってくるべきだったと悔やんだが遅い。代表作と思っている本『日本の近代建築』(岩波新書)と、私が個人的に一番好きな本『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)いずれにしようか迷ったが、結局前者を持って行き、上下二冊ともサインを頂戴した。
『日本の近代建築』などを持っているのは珍しいと思われたからか、「建築史をやっているんですか」と声をかけられたので、「実は…」と自分の職場を明かしたところ専攻の時代を聞かれ、中世なので本当は全然関係ないのですが…と照れながら返答した。失礼だが藤森さんの字は相当乱雑。知らない人が見たら子供のいたずら書きと思われそう。
鈴木さんからは『東京の[地霊]』(文春文庫)と『伊東忠太を知っていますか』(王国社)の二著に丁寧な楷書の字でサインを頂戴した。『東京の[地霊]』にサインをもらっているとき、「愛読書です」と声をかけたら、恐縮されてしまった。
実際東京に移り住んだあとこの本を読んで、東京の土地の来歴と建築物を結びつける視点を与えられ、東京散歩をする動機付けとなったのだから、先の言葉は嘘ではない。
このように、前々から畏敬していた建築史家三氏のお話を身近で聴くことができたのは、自分にとっても得がたい体験だった。この夏三人の口調を思い出しながらそれぞれの著書を読みたいなあと思っている。