山口瞳の肉声

礼儀作法入門

今年に入ってから突如として山口瞳復権という風潮が強くなってきた。すでに新潮文庫では新刊が三冊刊行され、また『小説新潮』で特集もなされた。今後も文庫刊行、『別冊文藝』特集号など、リバイバルの動きは消えないようである。
リバイバルするちょっぴり前からファンになった人間としては、作品を新しい形で読むことができるということで嬉しい反面、「なぜいま?」という疑問をぬぐい去ることができないのである。いまの世の中になぜ山口瞳さんの作品が売れ出したのか。その理由を明快に解き明かしている文章を知らない。
だからといって以下で理由を考えようというわけではない。解くヒントのようなものを探してみようという試みである。
リバイバルの直接のきっかけとなったのは、2000年4月に新潮文庫に入った『礼儀作法入門』*1であると思われる。ただし発売当初から爆発的に売れたというわけではない。仄聞するところによれば、じわじわと売れ出して昨年あたりから一気に版を重ねるに至ったらしい。
月並みな解釈であれば、書名の「礼儀作法入門」という言葉が、礼儀作法という社会のルール意識が稀薄になっている世の中に対するアンチ・テーゼとして受け入れられたと言うことができよう。
同書解説の中野朗さんによれば、この文章はもともと隔週誌『GORO』の創刊号から27回にわたって連載されたもので、連載年は1974年から翌75年まで(刊行75年)。連載開始時山口さんは48歳だった。
『GORO』はいうまでもなく若者向け男性雑誌である。中野さんによれば「十五歳から二十五歳の男性をターゲットにした」雑誌とする。同じく中野さんは本書をこう評価する。

この本には日常生活上、社会生活上でのルール、エチケット、マナーについてはもちろん書かれているが、それ以上に生身の山口瞳氏が色濃く書かれているのではないかと思った。(…)私に言わせると、この本は作家山口瞳氏の副読本である。正しく山口瞳氏を理解するためにこの本は必読本である、ということになる。
実際山口さんは本書のなかで、礼儀作法を説くことをかりて自らの生き方、考え方を説いている。中野さんの指摘は正鵠を射ていると思うし、本書をこのように読むことは、山口ファンとして正当な態度であるといえる。
ただここであらためて初出発表媒体とその対象年齢に目を向けたうえで本書に相対してみると、15〜25歳の将来ある男性諸君に対して呼びかけながら礼儀作法(生き方)を説いているという側面を見逃すわけにはいかない。いまの感覚からいえば、実際に若者が読んだかどうかはおくにしても、このような雑誌に山口さんが礼儀作法を説く文章を連載していたこと自体、素直な驚きを禁じえない。
そして現在、同じような年代の若者が復刊なった本書を買い求めるだろうか。おそらく「否」だろう。
では本文庫の主たる購買層は世代的に何歳くらいの人なのか。連載時に読者として想定された若者たちは、そのまま25(元版刊行時点から文庫刊行までの年数)を足せば、40歳から50歳となる。この人たちが購買者の中でも大きな比率を占めるのではなかろうか。
連載・元版を知っている人にとっては、かつて若かりし頃に山口瞳から語りかけられた生き方を反芻するため、連載・元版をかえりみなかった人(こちらの方が多いか)にとっては、“喪われた青年時代”に説かれたいたはずの生き方を知るため。いずれにしても自らのこれまでの人生をふりかえる、本書はそんな契機になったような気がするのである。
独特の畳みかけるような断定的文体で歯切れよく書かれている本書を黙読していると、いつのまにかその文章が小林桂樹さんの声になって頭に響いてくる。二度観た映画「江分利満氏の優雅な生活」のなかで小林さんが朗読していた原作の文体がそのまま展開されているのであった。
たとえばこんな文章は山口さんならではのものだ。
靴も外国製のほうがいい。まことに不思議な話であるが、寸法を取ってあつらえた日本の靴よりも外国の出来あいの靴のほうがピッタリあうし、足になじんでくるし、長持ちがする。(…)総じて皮製品は外国製がよく、特にイタリーがいい。皮を扱ってきた年月の長さが違うのだ。下駄と草履は?バカなことを言っちゃいけない。(「23 外国製品」)
最後の「バカなことを言っちゃいけない」というのは小林さんの声でなくてはいけない。私のなかで山口作品は小林桂樹という俳優による「山口瞳の肉声」によって記憶されている。