狗頭羊肉の本

私の岩波物語

山本夏彦さんの『私の岩波物語』*1(文春文庫)を読み終えた。これまで本書を読んだ書友の皆さんいずれもが声を揃えて絶賛しているとおり、名著といえる。
山本さんご自身が主宰するインテリア専門誌『室内』を回顧しつつ、それに仮託して実は「言論と出版の百年」を舌鋒鋭くふりかえるという野心的な試み。
「国語の破壊者」たる岩波書店への批判にはじまり、講談社筑摩書房中央公論・改造、実業之日本社が出版に果たした役割を検証する。また『暮しの手帖』と花森安治を論じ、佐佐木茂索と池島新平を取り上げ、扇谷正造を切って捨てる。
取り上げられるのはこうした版元ばかりではない。取次や小売店にも目配りがなされ、しかも製紙会社・印刷会社・製本会社と、一般的にはかえりみられることが少ない出版界の下部構造への言及も怠らない。原稿料の仕組みに憤り、また電通博報堂の歴史を概観して雑誌広告のあり方にも口を出す。
ちょうど先日読んだ松本清張の短篇「紙の牙」(新潮文庫『黒地の絵 傑作短篇集(六)』)が、広告主・広告代理店側と編集部の板挟みになる地方小新聞社の営業課中間管理職の話であり、それとからんで広告代理店の仕組みを興味深く読んだ。
これを読んで広告代理店の何たるかを初めて知った次第。広告代理店はコネクション重視だから、新入社員は成績の善し悪しだけでなく有名人の子供であれば構わず入社させるということにもなるほどと思った。
製紙・印刷・製本に触れた各章がとりわけ印象深い。疎開先の秋田県横手で戦後初の総選挙に行った山本さんは、投票用紙が「西の内」と呼ばれる水戸近在で製造された紙でできていることを喜ぶ。しかも筆記用具にペンと硯と墨汁が用意されており、ペンが硝子ペンであったことを確認して「投票に来た甲斐があった」と満足する。こんな瑣末なエピソードがたまらなく面白い。
本書のタイトル「私の岩波物語」は第一章の章タイトルでもある。「言論と出版の百年」をふりかえるためにまず岩波書店の話から始めたいというだけで、第一章のタイトルがそのまま書名になった。
岩波書店の社史的内容を期待した向きには期待はずれだが、内容はそれをはるかに上回る壮大な近代出版史なのである。「羊頭狗肉」の反対語をよく知らないから、「狗頭羊肉」の本と言っておこう。