気まぐれに『気まぐれ美術館』

気まぐれ美術館

このところ諸事に倦んだときページを開いて心を落ち着かすための本としていつも持ち歩いているのは、洲之内徹さんの『気まぐれ美術館』*1新潮文庫)である。それこそ“気まぐれ”に少しずつ読み進めているから、なかなか読み終わらない。
『気まぐれ美術館』の魅力については、もとよりふじたさんからの影響も少なくないけれど、決定的だったのは池内紀さんの『二列目の人生 隠れた異才たち』*2晶文社、感想は5/4条)で洲之内さんが取り上げられていたことだった。
このひと月あまりの間に、新潮文庫に入った洲之内さんの著作3冊(あと2冊は『絵のなかの散歩』『帰りたい風景 気まぐれ美術館』)すべてと出会うことができたのは幸運以外の何者でもない。出てそれほど経っていないというのに、すでに新刊書店でも見かけなくなっているらしいから(ジュンク堂池袋店では『気まぐれ美術館』のみ在庫)。
洲之内徹という名前が意識に刻まれ、その刻印が深くなるにつれ、ある悔恨の念もそれに比例して大きくなる。
もともと洲之内徹という名前を知らなかったわけではない。というのも、12年間住んでいた仙台市内にある宮城県美術館に、洲之内さんの死後彼のコレクションが一括して収められているからだ。
宮城県美術館に「洲之内コレクション」あり。「洲之内コレクション」の何たるか、洲之内徹の何者かを知らないまでも、美術ファンには有名らしいことだけ仄聞していたのであった。
仙台に住んでいながら当の美術館には二、三度しか足を運んでいない(回数を憶えていないくらい曖昧だ)。そのとき「洲之内コレクション」は見たはずなのである。何も記憶に残っていないということから、たとえ関心が別のところにあったと言い逃れをしても、自らの目の節穴であることが露呈してしまう。
先日たなべ書店で関川夏央さんの『「ただの人」の人生』*3(文春文庫)というエッセイ集を見つけた。見慣れぬ書名だったので手にとって目次を見た瞬間、買うことに決めた。そこに「洲之内コレクション」というタイトルのエッセイを見つけたのである。
拾い読みしてみると、洲之内徹という人物、「洲之内コレクション」という日本絵画のコレクションの魅力をあますところなく伝えている。今度仙台に行ったとき、忘れずに宮城県美術館を訪れようと思う。