要するに独り言

ミステリー中毒

養老孟司さんは無類のミステリ好きだ。多いときで月に20冊くらいミステリを読むという。しかも読むのはほとんど海外物。海外の作品であれば日本のものよりも相対的に現実味にとぼしく死は他人事であるというのが理由らしい。
そして読みまくり片っ端から忘れてゆく。ひと月前に読んだ本の内容すら怪しくなって、カバーに刷られている梗概を読んで思い出す始末。
解剖学者として著名な養老さんのこと、それでなくとも多忙な身の上。「よく読む暇がありますな」と言われたとき、ひとりこうつぶやく。

暇だから推理小説を読むのかといえば、もちろんそれは違う。読みたいから読む。忙しいのによくそんなものまで読む。そう思う人は、読むのが好きでないだけのことである。この忙しいのに、私は虫取りに外国にまで出かける。好きだからに決まっている。
これは養老さんのミステリ時評『ミステリー中毒』*1双葉文庫)の一節である。
なぜ忙しいときに限って本を読みたくなるのか、そんな誰しも一度は抱く“逃避願望”の謎を常に心の片隅において自問自答しているから、そうした書き手の書くものが面白くないわけがない。「本を読むのも一種の余裕で、いまの若者が本を読まないというのも、その種の余裕がないからであろう」
余裕と暇は違う。忙しいというだけで余裕も何も持たなければ、仕事処理用のコンピュータと同じこと。
ところで私は海外ミステリはほとんどまったくといっていいほど読まないから、本書で取り上げられている本のなかで自分も読んだ本というのはほとんどなかった。けれども夢中で読み進んだ。たんなるミステリ時評にとどまらない、養老さん独特の文明批評がそこから透けて見えるからだ。
本書は『小説推理』というミステリ専門誌に連載された月旦であるが、上記の意味で異色の推理月旦だということができる。時にはミステリ時評であることを忘れてしまうような鋭い社会批評を展開することがある。
ミステリ評論の合間合間にアメリカ(社会)論、情報論、情報化社会論、教育制度論、ヴァーチャル・リアリティ論、テレビゲーム論、身体論、認識論、宗教論、昆虫採集論、臓器移植論などが入ってくる。場合によってはミステリ評論そっちのけで好きな昆虫採集の話やテレビゲームの話に花が咲く。
「あとがき」のなかで養老さんは本書のことを「要するに独り言」と表現しているが、読む立場にとっては一冊の本からミステリ評や文明批評、社会批評を聞くことができてお得な本だった。
先に引用したように、養老さんは時間があればミステリを読んでいる。読書による時間の使い方という点でユニークだと感じたのは、限られた時間でたくさんの本を読もうという意識があまりないこと。冊数の多さで過ぎ去った読書時間を量り自己満足するのではないらしい。原書を読めば翻訳物より読むのに時間がかかってありがたい(限られた読書時間をその本のためにフルに使える)と思うタイプなのである。
といいつつも、出張や旅行に出るときは鞄に大量のミステリを詰め込むため、重い鞄を常に持ち歩いたすえに首を痛めてしまう。
また読書だけでなく、プレステやコンピュータゲームにも夢中になって徹夜してしまうこともしばしば。「還暦の老人がすることじゃない」といいながら、テレビゲームに親しんできた歴史を思い出している。
専門(教育含む)の仕事と虫取りと読書、それにゲームの時間があれば何もいらない。さても煩わしきは人間関係。いやな人間関係から解放されるため読書をするにしくはない。
こんな文章に思わずうなずいてしまった。
ものを学ぶというのは、時と所に応じて、目を素直に開けておくということである。その意味では、現代の大人も学生も、ほとんど昼寝ばかりしているように見える。関心の在処をいうなら、すべては人間関係のみであろう。会社では、上役が同僚がどうしたこうした、学生なら、友だちがどうしたこうした、これではあとは昼寝ばかりになって、やむを得ない。(226頁)
私自身が歳をとったせいか、人間だけの世界を読むと、ときにうっとうしく感じるようになってきた。花鳥風月が必要なのである。若い人には、そうした感覚がわからないかもしれないと思う。体力があるから、人間だけの世界に生きても、いっこうに平気らしい。(…)人間関係のややこしさは、推理小説のなかだけで十分である。(184頁)