幻想的本格ミステリ?

暗色コメディ

『陸橋殺人事件』という古典的ミステリで知られるイギリスの作家ロナルド・ノックスは、作品とはべつに「探偵小説十戒」という探偵小説の定義集(タブー集)を遺していることでも有名だ(1928年発表)。
江戸川乱歩が『幻影城』(講談社江戸川乱歩推理文庫51、44頁)にて紹介している「十戒」を引用する。

一、犯人は小説の初めから登場している人物でなくてはならない。又、読者が疑うことの出来ないような人物が犯人であってはならない。
一、探偵方法に超自然力を用いてはならない。
一、科学上未確定の毒物や、非常にむつかしい科学的説明を要する毒物を使ってはいけない。
一、秘密の通路や地下室を用いてはいけない。
一、中華人を登場せしめてはならない。
一、偶然の発見や探偵の直感によって事件を解決してはいけない。
一、探偵自身が犯人であってはならない。
一、読者の知らない手掛りによって解決してはいけない。
一、ワトソン役は彼自身の判断を全部読者に知らせるべきである。
一、双生児や変装による二人一役は、予め読者に双生児の存在を知らせ、又は変装者が役者などの前歴を持っていることを知らせた上でなくては、用いてはならない。
現代のわたしたちは、上記十戒を破ったミステリの名作があることを知っている。このうちの第五条、中華人(中国人)をミステリに登場させてはいけないというタブーも面白い、というか異色である。乱歩はこれに、「西洋人には中華人は何となく超自然、超合理的な感じを与えるからであろう」という注釈を付している。
唐突だが、連城三紀彦さんの文庫新刊『暗色コメディ』*1(文春文庫)を読んでいてこの十戒を思い出したのだった。
別に本作品に「中華人」が登場するわけではない。主な舞台は精神病院で、この長篇は狂気がテーマとなっている。語られていることがらが妄想か現実か判別がつかないというのが、読む人によってはルール違反にとられるのではないかと思ったのだ。もっとも実際読み進めるうちにこれは杞憂あったことがわかった。
本書の帯には「本格ミステリの古典的名作が甦る!」とあって、私はこのコピーにつられた。「古典的名作」という売り文句に弱い。ところが読んでみると、期待ほど「本格ミステリ」という味わいが強くない。
また、古典的名作というと、先日読んだような『不連続殺人事件』を思い出す私にとって、それほどの位置づけが与えられる作品かどうかというと、否定的にならざるをえない。
ただし駄作かというと、これもまたノーである。面白い。連城三紀彦といえば「戻り川心中」しか思い出さず、しかもこれはミステリでなくたんなる恋愛小説だとばかり思っていた私にとって、連城さんがこんな仕掛けに満ちたミステリ作品を数多く発表している作家だとは思わなかったというのがまず新鮮な驚きだった。
カバー裏にある梗概からの引用だからネタばらしには当たらないと思うので紹介すれば、本作品は「もう一人の自分を目撃してしまった主婦」「自分を轢き殺したはずのトラックが消滅した画家」「妻に、あんたは一週間前に死んだと告げられた葬儀屋」「知らぬ間に妻が別人にすり替わっていた外科医」という不可能興味のエピソードで幕が開く。読者を物語に引きこむには十分で、「これが本格ミステリなの?」と訝るような設定である。
不可能興味にはじまる謎が輻輳して物語がどのように解決するのかという先が見えない面白さがいやがおうにも読書欲をあおる。
【※以下内容に関わる部分ですので文字を反転します】
いわば一種幻想的不可能興味がポイントとなることもあってか、「本格ミステリ」に付き物の探偵という立場の人間は実質的に存在しない。また、「本格」でなくともミステリには不可欠の「犯人」という言葉が登場したのは、私の読み方に漏れがなければ、物語が三分の二を過ぎてからのこと。
つまりそれまでは厳密な意味でこの物語がミステリかどうかすら判断できぬ宙づり状態で読者は引っ張られてゆくのである。上記四つの不可能興味のうち、日常的解釈がもっとも通用しない奇妙奇天烈な謎が事件の鍵を握っているという仕掛けもお見事。
解説の有栖川有栖さんは新本格派の旗手。そういう方が本作品を絶賛するのだから「本格ミステリの古典的名作」という評価は外れていないのだろう。ただし本格を敬遠しがちな人にとっても楽しめるミステリであることもまた間違いない。