「二世」とは何か

二世論

人間は誰しも人の子である。そんな一般的な意味でいえば誰もが「(父あるいは母の)二世」であるわけだが、ふつう「二世」という場合はそうした一般的意味を指すものではない。
もっとも「二世」という立場の人物が、全人類を母集合とする“一般的二世”から社会的に切り分けられて存在する(以下これをカギカッコつきの「二世」と呼ぶ)のは日本だけなのだろうか。
伝統芸能の分野における親子相承や企業におけるファミリー企業的体質の強さ、いやそんなことをいえば天皇家が「二世」意識を生み出す究極的な存在なのかもしれない。
船曳建夫さんの文庫新刊『二世論』*1新潮文庫)は、日本における各界の「二世」へのインタビュー集である。
対象は幅広い。「二世」意識がもっとも濃厚な伝統芸能の分野(歌舞伎の市川團十郎・同新之助、能の和泉元彌・淳子、落語の柳家花緑林家こぶ平)、また「二世」といえば槍玉にあげられる政界(橋本大二郎鳩山由紀夫・同邦夫)、文学者(村松友視阿川佐和子萩原朔美)、俳優(田村高廣水谷八重子)、財界(福原義春水野正人)、学者(金田一春彦)など、親子で似た職種につく場合のほか、まったく違う分野でそれぞれ活躍している場合(新田次郎藤原正彦柳家小さん小林十市團伊玖磨−團紀彦)もある。
船曳さんは文化人類学者だから、彼らにインタビューするさいの関心のひとつに、「継ぐ」という意識の有無がある。だいたいの方に、親(ないし血縁者)の仕事を継いでいるという意識があるかどうかを訊ねている。
これに対し、伝統芸能はおいて、ほとんどの人が意識していないと答えている。意識していないとはいえ、「継ぐ」という現象自体への関心はどの方にもあるらしい。こうした「継ぐ」観念が意識されていることに、イエの制度とからんだ日本的特徴があるのだろう。
またインタビューのなかでも重点的に取り上げられていたのは、環境の問題だ。親が子供に対して自分の職業を継いでもらうことを強制するか否かにかかわらず、子供にとっては置かれた環境は将来に大きく影響する。
本書のなかで取り上げられている方々の親御さんたちは、子供に対してああせよこうせよと将来を強制することなく、自由にさせていた場合が多いらしい。しかしながらそうはいっても、置かれた環境によって自然と方向性は限定されるのに違いない。
個人的体験にそくしていえば、いま「学者」という世界の周縁にいて、同じような立場の人々のなかには、親御さんも同様に学者(少なくとも教師)の人が多いということに驚かされる。そして「やっぱり」とひとり納得し、わが子はどうなるのだろうと心配する。
学者の世界の「二世」度は政界に劣らず高いのではあるまいか。自分は学問とは無縁のサラリーマン家庭に育ったので、代々の“学者の家”に育ったサラブレッドの人との違いに愕然とせざるをえないし、ではなぜ自分はこんなふうな職業を選択したのだろうと訝るのである。
文化人類学的関心というのとは別次元に、話として面白かったのはやはり噺家のお二人、柳家花緑さんと林家こぶ平さんだ。これに花緑さんの兄で世界的ダンサーの小林十市さんも加えてよい。噺家のお二人はとにかくよくしゃべる。また「継ぐ」ということに自覚的であることもよくわかる。
先般亡くなられた柳家小さん師匠の孫にあたる柳家花緑さんだが、小さん師匠の子供で同じ噺家柳家三語楼さんの息子さんなのだと思っていたら、小さん師匠の娘さんの子供ということがわかって驚いた。この小さんの娘、花緑さんのお母様がかなり仕掛け人的性格をお持ちらしい。
船曳さんの「お母さんは好きですか」という質問に対し花緑さん答えて曰く、「好きですね。もう今はとってもかわいい人です。こんなかわいい女性はいるだろうかっていう。目の中に入れても痛くない母親。生意気な子供だ(笑)」。なんとも楽しいやりとりである。
印象的なのは、本書の最後に配されている故高円宮憲仁親王へのインタビュー。話がとても明快で、しかも面白い。また皇族という自らの立場を十分に理解して将来をよく見据えているという態度が話からも伝わってくる。
「皇族でない自分を想定するか」という質問に対して、しないと答え、それは自分で選んだ職業ではなく、自分が別の職業につく可能性を最初からもっていないので、考えてもしょうがないことだからと理由を述べる。
跡継ぎとして男子がいない問題にもはっきり見解を述べるなど、裏表なくわかりやすい話であって、この方の急逝は、皇室にとってはかなり大きな損失なのではなかったのかと思えてしまう。