神経質な駄洒落づかい

句会で会った人

昨日の最後のほうで触れた『句会で会った人』*1富士見書房)は、『ちょっといい話』索引完成と相前後して読み終えた。
帯に「俳句ちょっといい話」とある。戸板さんの著作を何でもかんでも「○○ちょっといい話」といいかえるのは芸がないと思いつつも、実際本書の中味は戸板さんが参加した句会で出会った人々の人物スケッチであり、句会風景であるから、納得せざるをえない。
これを読むと、句会というのは実に楽しい時空間だなあと羨んでしまう。むろん緊張の火花が飛び交うこともあるのだろうが、気のおけない仲間たちと駄弁を繰りながら句をひねって愉しいひとときを過ごす。閑雅な遊興である。
戸板さんもこの回想記の連載(初出誌『俳句研究』)はとても楽しかったらしい。最後をこんな一文で結んでいる。

本誌に一年半にわたって連載させて貰った回想記であるが、思えば、ただの一人も、不快な人はいなかった。
俳句の徳というものだろう。
俳句の徳につつまれ不快な人物がいっさい登場しないから、本書もまた「ちょっといい話」シリーズの変種であり、戸板人物伝に位置づけて考えなければならないだろう。
ところで昨日触れた『ちょっといい話』の後記に、そこで書かれた話が戸板さんご本人にブーメランのように戻ってくることへの期待が記されている。挿話が人の口伝いにめぐりめぐって発信者たる戸板さんの耳に入るということである。『句会で会った人』を読むと、実際にこういうことがあったらしい。
戸板さんがある日はい原(紙の店)に行ったら、旦那が女性に小づかいをあげる時の袋を売っていたという虚談を思いつき、「その袋の紙がパトロンなんだ」と結ぶことにし、その日に某所で知り合いに話したという。
すると二、三日して、まったくちがう方面から「こういう話があるんですよ」と、自分がこしらえた話がブーメランのように戻ってきた。
面白いのは、お店の名前が鳩居堂に変わっていたこと。これが実話なのか、鳩居堂までが戸板さんの創作なのか不明だが、いずれにしても戸板さんの駄洒落にかける情熱には恐れ入ってしまう。
ところで駄洒落づかいの最悪の典型は、その“口害”たることも自覚せず駄洒落を無遠慮にたれながす人であろう。無遠慮な人という表現が悪ければ、神経が図太い人といいかえようか(同じか)。
むろん私は駄洒落づかいを全否定しているわけではない。その場をなごませたり、人間関係を潤滑にすべくこまやかに配慮されている駄洒落づかいの方はとても好きだ。こういう人は、神経が図太いという地点からは正反対のところにいる。
それどころか逆に、神経質なほど自分の洒落に気をつかうのであるらしい。『句会で会った人』には、戸板さんご自身の体験にそくした事例がいくつか書きとめられている。
投句をする時「フリートーク」といったら大いに受けたので、いい気になって、以後シャレ(駄ジャレではないつもりだ)をさかんにいう。しかし、連発すると、みんなの笑いがつい愛想笑いになるのがわかったので、自戒して、胸の中でシャレを考え、もうよかろうというころに、ひとついう程度にした。(「東京やなぎ句会」)
言いたくてたまらないのに笑いが愛想笑いになるのをおそれ我慢する。実にいじましい。ご自分の駄ジャレをあくまでシャレだと言い張るのも稚気が感じられて好ましい。こういう事例を集めれば、“駄洒落の人類学”ができるかもしれない。
洒落を発する人は、それを受け止める立場の人の気持ちも想像しなければならない。
永さん(永六輔―引用者注)は、私の句会の席でのシャレを、ニヤニヤしながら聞いていて、ちょっと間をおいて、「わかりました」といって爆笑した。このちょっとした(役者のいわゆる一拍)があるので、私はその時、少々赤面した。大げさにいえば、ある気骨を見せた反応ともいえる。シャレがうっとうしかったようだ。(同上)
洒落を聞いたとき、人は思わず素面をさらけだしてしまうのだろうか。こんなふうに鋭く観察されていると、洒落の受け答えにも注意しなければならないなと思ってしまう。戸板さんの文学のある一面は、このような洒落を通した人間観察によって支えられていると考えることができるだろう。