「ちょっといい話」再評価

戸板康二さんが1993年1月に急逝されてから今年は10年目にあたる。活字メディアでとくにこのことを意識した特集などは目に入っていない。残念である。もし私が編集者であれば、戸板康二没後十年特集としてこんな企画を考えてみた。

  • 戸板当世子未亡人へのインタビュー
  • 入船亭扇橋さんのエッセイ(句友として)
  • 矢野誠一さんのエッセイ(弟子・友人・句友として)
  • 小田島雄志さんのエッセイ(駄洒落仲間として)
  • 犬丸治さんのエッセイ(歌舞伎から)
  • 渡辺保さんのエッセイ(歌舞伎から)
  • 日下三蔵さんのエッセイ(ミステリから)
  • 戸板サイトふじたさん(id:foujita)に熱烈な戸板さんへのオマージュ

そしてそこにもし自分が何か書くとすれば、「ちょっといい話」再評価ということをやりたいのである。
ひとつのエピソードがだいたい数行に収まり、そのなかに見事に取り上げられた人物の姿が凝縮されているミニ・ポルトレ集としての「ちょっといい話」シリーズの意義、また、そこに各種人物伝・回想録を加えて、評伝作家としての戸板康二さんの特質も考えたい。
ずいぶん長くかかってしまったが、ようやくシリーズ第一冊の『ちょっといい話』索引を作成しおえた。興味のある方はこちらからご覧いただきたい。やはりこうした基礎作業を行なうといろいろなことがわかってくる。
駄洒落使いは他人の駄洒落をも蒐集するということ、また戸板さんの情報ソースは誰なのか、誰のエピソードに関心をもっているのか、などなど。これらはいずれシリーズの残り三冊の索引を作り終えたときにいま一度考えてみたい点である。
『ちょっといい話』*1(文春文庫)の「後記」を見ると、これらのエピソードがどのようにして集められ、それを戸板さんがどのように加工しているのかという方法論が開示されており、なかなか興味深い。
それによれば、もともと「ちょっといい話」は『オール讀物』のリレーコラムであり、戸板さんの前に岡部冬彦さん、あとは矢野誠一さんが書かれたという。そこに、戸板さんが書かれていたものに目をつけた文藝春秋の小田切一雄氏が一冊の本にまとめることを提案、以来戸板さんはノートをこしらえてこれらの話を書きためていったのだという。
このなかで絶品なのは、「後記」でも創作秘話が語られている新珠三千代さんのエピソードだ。分量的にめずらしく一頁半もある。長くなるが面白い話なので全文引用したい(文庫版177頁)。

フランキー堺さんが、だいぶ前に書いた話だから、公表を許してもらうことにしよう。
新珠三千代さんが、京都にロケに行っていた時、目にものもらいができた。
それが治るまでには、撮影が進行しないので、迷惑をかける。新珠さんは気をつかうたちだから、自分のためにみんなが待っているのを気にして、旅館の女中さんに、「いい目医者がないかしら」と相談した。
すると、「いい医者が嵯峨にあります。大田といって、嵐山電車の駅からタクシーで十分ほどのところです。火箸でジーッと焼く荒療治ですけど、すぐ治ります」という。
そこで、新珠さんは助監督と一緒に、嵯峨に行った。いわれた通り、一度駅の前まで行き、車を走らせたが、乗って三分ぐらいのところに、大田という大きな看板の出ている病院があった。
「タクシーで十分じゃなくて、徒歩で十分だったのだわ」と思って、その前で車から降りた。
じつは、大田という病院が、親戚同士で、いま新珠さんのはいって行こうとしたのは、眼科のほうではなく、精神科のほうだったのである。
それとは知らず、新珠さんは、若い助監督と一緒に、玄関をはいってゆく。
院長が看護婦と出て来て、「さァ、こちらへ」と、親切に案内する。新珠さんは、「宿からきっと電話を入れてくれたのだろう」と思いながら、診察室にはいった。
「さァ、ここにおかけなさい」といわれたので、「新珠三千代でございます」と挨拶して腰かけた。
院長が新珠さんを見ず、助監督のほうを見て、「このひと、いつから、そう思いこんでるんですか」
うまい。間然するところのない名作である。「後記」によると、戸板さんはこの話を会う人ごとにしていたらしい。「延べ十何回は話しているようである」という。話すたびにオチを効果的にすべく練りあげられ、このテキストまでたどりついたのに違いない。
この話には後日談があって、それが別著『句会で会った人』(富士見書房)に収められている。あるパーティで戸板さんは新珠さんと会った。すると新珠さんが近づいてきて、微笑しながら「いろいろどうも」と言われ恐縮したというのである。
新珠さんのにこやかな表情が浮かんでくる、何とも楽しいではないか。