「源氏」にもっとも近づいた日

輝く日の宮

丸谷才一さんの書いたものを読むと、「こういう」を「かういふ」、「ほうって」を「はふつて」というように(やうに)、旧かなづかいでいかにも典雅な雰囲気の文章を書きたくなってくる。今回はこの欲望をぐっとこらえる。
『女ざかり』以来10年ぶりという触れ込みで話題になっている丸谷さんの新刊長篇小説『輝く日の宮』*1講談社)を読み終えた。
『女ざかり』が出たときも『裏声で歌へ君が代』以来11年ぶり、また贈与論を取り込んだということで話題になった。当時少し贈与論にかぶれていた私は『女ざかり』を買い求めて読みはじめたが、挫折している。
ところで『輝く日の宮』の話。めっぽう面白い。小説を読むことの愉しみを味わわせてくれる、ブッキッシュな味わいが横溢した快作であった。0章から7章まで、すべて異なる文体で書かれてあるというのが宣伝文句のひとつだが、これはまあ「そんなところかな」という程度で、目玉というほどではない。
0章は、主人公の女性が中学三年生のときに書いた鏡花風の小説になっている。ここにすでに伏線が張られている。
主人公杉安佐子は女子大の国文科の講師(のちに助教授)。父親は日本史の大学教授で、一見して平泉澄をモデルにしたとわかる(だって名前が和泉錠だ)皇国史観の親玉の弟子で、戦後「転向」して生活史の大家となった。当然ながら、私はここで話に惹き込まれる。
この女主人公は実証的というよりはむしろ想像力を飛翔させた問題提起型の切れる研究者として造型されている。私はこういう切れ味鋭い女性研究者というのがとても苦手なのである。
研究に専念したいから恋人の求婚を断ったり、自作の構想を練ることに集中するあまり、乗っている電車で起こった事件に気づかなかったり、こういう女性はもういけない。ふられた男に同情したくなる。こう思った時点で、すでに私は丸谷さんの術中にはまっているということになる。
彼女は19世紀文学研究会というものを仲間とつくり、明治維新とは無縁の19世紀文学というくくりで文学史を把握する。為永春水徳田秋声を同一位相で論じた論文で、学会の賞まで受賞する。
また芭蕉奥の細道紀行の動機を義経五百年忌にあると断じ、返す刀で『源氏物語』のなかで存在の有無が問題になっている「輝く日の宮」の巻の存在を主張する。
シンポジウム(戯曲形式で書かれている)で「輝く日の宮」実在説を唱えた結果、同じシンポジウムのパネラーだった源氏研究者の女性学者と論争になり新聞に取り上げられた。才色兼備ということもあってマスコミは彼女に注目する。そこに目をつけた文芸誌は彼女に失われた「輝く日の宮」の巻を執筆するように勧める。後半はこの構想に、求婚者たる実業家との色恋沙汰が絡んで展開する。
今回『輝く日の宮』を読んで、『源氏物語』を読んでみたくなった。すでに喜寿を過ぎ今年78歳になる丸谷さんをして、これほどまでに執着させるのだから、『源氏』は面白いに違いない。
もっともあいにく私の手元には源氏のテキストはない。唯一“谷崎源氏”だけがある。古典への興味、歴史学からの興味、いろいろな経路でこれまでも源氏を意識に入れたことはあった。でも「読んでみようか」と思わされたのは、たぶん今回が初めてだろう。
実証一辺倒、想像力の羽を伸ばすことを押さえつける頑迷固陋な学界のあり方、学界を構成する学者たちの愚かさに対する筆は容赦ない。こんな世界への拒否反応を日増しに増幅させつつある私にとって、これほど爽快な物言いはなかった。たとえばこんなアフォリズムはどうだろう。

彼は四十八歳の日本文学研究者。グレイの背広に白のシャツでノーネクタイ。いかにも現代の大学教授といふ感じの中途半端な服装である。(184頁)
一体、大学の教師にはかういふおしやべりが多くて困るよ。あれで教授会が長くなる。もつとも、一般論として言へば、一時間二十分ばかり独占的にしやべつていいのが、大学教師稼業のたつた一つの取柄なんだけどね。(229頁)
まあどこへ行つても変なのはゐるもんだが、特に大学教授のをかしいのは特別でしてね。(269頁)
もつともここで批判されるやうなお方は、かういふ小説は読まないだらうから、痛くも痒くもないのでせう。