木の気持ち、花の気持ち

こぼれ種

最近、「あのころこうしておけば」と悔やむことが多くなった。それだけ歳をとって「あのころ」という時間の堆積が多くなってきたということになるのだろう。
たとえば「あのころ木や花の名前をもっとおぼえていれば」という悔いがある。干支三回りを迎えた私の人生のなかで、もっとも草花の名前に対する知識があった時期というのは、たぶん最初の12年なのかもしれない。つまり小学生時代ということだ。
世の中のさまざまな事どもへの関心が広がって、相対的に身近な草花への興味が薄まる。しかも長じて車を運転するようになると、じかに植物に接する機会も遠のき、ついには植物から季節感を得るといった体験すら皆無になる。
田舎よりは自然が少ない東京に移り住んだことは、私にとって意外にも逆の作用を及ぼした。草花との距離が少し縮まり、植物から季節感を感じることが多くなったのだ。
車生活から脱却して歩くようになったのが大きい。道を歩いていて見慣れぬ草木が目に入り、「あれ、この木(花)は何だろう」と疑問に思うことも多くなってきたのは、その方面の感性が回復してきた証拠であろう。もっとも名前が分からない植物は、たいてい誰でも知っているメジャーなものであることが多いのが情けない。
幸田文さんの『木』(新潮文庫)をいつか読みたいなあと思いつつ果たせないでいるうちに、娘さん青木玉さんの『こぼれ種』*1新潮文庫)が文庫に入ったので、そちらを先に読むことにした。
野中昭夫さんのきれいな写真が入った、草花訪ね歩きのエッセイ集である。露伴−文とつづく文人の家の伝統を豊かに受け継いだ玉さんの感性が光る心地よい文章によって、草花の勉強をした気分になった。木々花々を見つめる玉さんの柔らかなまなざしに胸を打たれる。
「樹木をただそこに生えているものとだけ考える場合と、特別に自分たちとつながりを持つものとして考えることの違い」について思いをはせる(「岩の上の松」)。
小枝を切って土に挿せば根を張って独立しだす木の不思議に、「木は何を考えているのだろう」と木の気持ちを忖度する(「長い道草」)。
あれこれ忖度するだけで木との距離は縮まる。小石川礫川公園に、幸田家から移植した「ハンカチの木」があるそうだ。いつの日か見に行きたいものである。