こんな面白い作家の小説を

今回山形・仙台にでかけるにあたって携えたのは、獅子文六『自由学校』新潮文庫)一冊。以前読んだ『てんやわんや』(感想は4/22条)、および『やっさもっさ』と合わせて獅子の“敗戦三部作”と呼ばれているうちの一冊である。
読みはじめるとこれまためっぽう面白い。車中にいるときはほとんど読み続けていた。山形−仙台間を結ぶ仙山線では、読書で目が疲れると窓外に目をうつして目前に広がる深い緑を眺めてひと休みする。至福の時間だった。
帰りの新幹線でも、物語が佳境に入ってきたこともあって、ひどい疲れにもかかわらず読み続けた(多少ウトウトしたが)。新幹線から下車し在来線を乗り継ぎながらなおも読む。こういうときには逆に、乗り継ぎの待ち時間が長いのがありがたい。
最寄り駅に着いた時点であと十数ページ。もちろん帰宅後シャワーを浴びて汗を流し、ビールを飲みながら、この波瀾万丈の物語を読み終えた。
それにしてもこの面白さはただ者ではない。通信社に勤める巨漢南村五百助は生来ののんびり屋。美貌の妻駒子が縫製や翻訳の内職をして家計を助けている。
ある朝五百助がなかなか出勤しようとしないため、駒子が尻を叩いて出かけさせようとすると、五百助から意外な言葉が飛び出した。すでにひと月前に会社を辞め、会社に出かけるふりをしてブラブラしていたという。しかも「自由が欲しくなった」とつぶやいた。
家計をやりくりして小遣いを夫に与えていた駒子の怒りが爆発し、「出ていけ!」と叫ぶ駒子。すると五百助は、この言葉を待っていましたとばかりに帽子を取ってプイと出て行ってしまった。
それからこの夫婦それぞれに襲ってくる運命の荒波。そこに、五百助の叔父である老学者羽根田が中心となって結成された「バカバヤシ」の有閑連中が絡みながら物語は展開する。
五百助は「お金の水」(お茶の水)の崖にうがたれた防空壕で暮らす一人の老人と出会い、そこからあたかも崖を転げ落ちてゆくように最底辺の生活を体験することになる。ところが「転落」と思った運命は意外にも…。
昭和25年に新聞小説として連載された本作品は、戦後占領下の都市風俗と大都市東京の最底辺で暮らす人々の生活を描いて、アメリカによってもたらされた「自由」を痛烈に諷刺している。
獅子は登場人物に次のように言わせている。

いや、敗戦にも種類がある。(…)しかし、その敗け方は、同一ではありません。敗戦国は、せめて、立派な敗け方をすべきです。天に対し、世界に対し、戦勝国に対し、恥じることなき敗け方が、あるのです。(…)しかるに、日本の現状は、どうですか。この東京の民心は、何事ですか。こりゃァ、敗戦以下ですよ。少くとも、内乱の敗戦ですよ。真に、国敗れたことを知ったならば、こんなザマはできん筈です。(文庫版201頁)
獅子文学の特徴たる諷刺という側面がこの作品を読むことで理解された。そのいっぽうで、最底辺の暮らしを描いていながら話はまったく暗くない。からっとしたユーモアに全編包まれている。これほど暗さと無縁な作品(作家)も珍しい。爆発的人気を呼んだ理由がこれまたよくわかる。
この作品を新聞連載で読んでいたら、さぞかし毎朝朝刊を読むのが楽しかっただろうと思わずにはおれない。
小林信彦さんは当時高校三年生で、「毎日、ドキドキしながら読んだ。学校へ行くと、主人公がこんなことをした、あれはアブナイぞ、と友達と話し合った」とふりかえっている(「獅子文六を再評価しよう1」『にっちもさっちも』所収)。
そもそも上の文章で小林さんが獅子文六再評価を提唱するに至ったきっかけは、「自由学校」の映画をビデオで見て、その後原作を読んだことだった。小林さんは獅子作品に惚れぬいている。そして「いかに出版不況とはいえ、こういう作家の作品が書店に全くないのはモンダイである」と怒りを発する。
また小林さんは、獅子文六の仕事を見渡したうえで、彼の小説の特徴を分析している。第一の特徴としてあげられるのが、「〈その時代の日本人の生活がよくわかる〉こと」「風俗、流行、物価をふくめて、すべてわかる」ことだという。逆に言えば、それゆえに時代の移り変わりとともに古びてしまったと理解することもできる。
しかしいくら戦後風俗を描いたという歴史性を有するとはいえ、昭和30〜40年代(あるいは50年代)まで刷を重ねた大人気作品である。ゆえに「古びている」というのは現在絶版になっている理由にならないのではないか。せめて三部作くらいは復刊してほしいものである。