悪態から寿限無へ

かがやく日本語の悪態

川崎洋さんの『かがやく日本語の悪態』*1新潮文庫)を読み終えた。
著者の川崎さんという方をこれまで知らなかったが、詩人であり、放送脚本や方言研究などでも活躍されている方とのこと。本書のなかでもこれまでの自著の成果がふんだんにとりいれられている。
本書は、落語や遊里(芸能界・花柳界・水商売など)、芝居・映画・文芸、方言、さらには現代の大学キャンパスで使われている悪態を広く集めたものである。だから悪態とひとくちに言っても、蒐集の幅はかなり広い。
たとえばキャンパスで話される(つまり現代の若者の間で飛び交う)悪態のなかには、「とろい」「自己中」「シャネラー」「プーたろう」など、一見悪態とまで言えないような言葉も含まれる。もっとも上記の言葉を「悪態とまで言えない」と見る私の考え方が狭いものなのかもしれない。
悪態と聞いて私が思い出した文学作品は筒井康隆さんの「読者罵倒」。改行なく悪態語を延々と連ねた筒井さんらしい異色作である。そこで使われているような罵詈雑言をきわめた“汚い”言葉、これこそが悪態であると考えるのは、きわめて限定的なものだったと反省した。
筒井康隆さんも川崎さんも、悪態(あるいはそこに含まれる差別語)を規制する動きに敏感なのだろう。それらを封じ込めることによって文化としての日本語が痩せ衰えてしまうことに危機感を抱いている。

こうして並べて読んでみると、昔は日本語の話し言葉や書き言葉の中に悪態のダイナミズムが豊かに波打っていたなあと感じないではいられません。(「まえがき」)
悪態の毒素を薄めようとする動き、これこそが文化衰退の一因となるのである。
悪態と言えばもう一つ思い出すのは、本書にも引用されている漱石坊っちゃん』の一節だ。「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」
この箇所を読み、はからずも落語「寿限無」のあの長い名前を思い出した。
「じゅげむじゅげむ、ごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ、うんらいまつ、ふうらいまつ、くうねるところにすむところ、ぱいぽぱいぽ、ぱいぽのしゅうりんがあ、しゅうりんがあのぐうりんだい、ぐうりんだいのぽんぽこぴいのぽんぽこなあの長久命の長助」(お、何も見ないで書けたぞ!)。
もちろん寿限無は長い名前を付けることで長命であることを願ったものだから、悪態とは正反対の位置にある。でも上の『坊っちゃん』の悪態とリズムが何と似ていることか。
いまNHK教育テレビの朝の子供番組に「にほんごであそぼ」という番組がある。小錦野村萬斎神田山陽らが出演して、日本語の表現や特徴的な言い回し、慣用句などを楽しく伝える、大人も楽しめる面白い番組だ。
このなかに、素人に「寿限無」の名前を暗記させて全部言わせるというコーナーがある。ここで気づくのは大人と子供の差という問題。大人の場合字づらで暗記してしまうので、声に出して寿限無の名前を言うとき、どうしても棒読みになってしまう。
対して子供たちの場合、テンポよくよく節回しをつけて「語る」ので、耳に心地よくすっと入ってくる。もともとは落語という語りの芸で生まれた寿限無の名前、日本語としては子供たちの語り方に軍配を上げたい。
毎朝のようにこれを見ているためか、ある日、子供がこの寿限無の名前をすべてではないにせよすらすらとしゃべりながら一人で遊んでいるのを聞いてびっくりした。やはり耳から(繰り返し)憶えるということは大切だと身にしみた。そのうえ驚くべきことに、私も憶えることができたのだから。