これぞ“双方向型”エッセイ

広辞苑の神話

一昨日久保田万太郎『火事息子』(中公文庫)に触れて、この作品が歌舞伎や邦楽の知識なしでは理解しにくいものであるとする戸板康二さんの解説を引用した。こういう場合は注釈という手がある。ただ注釈も物によってはうるさく感じられることがないでもない。
以前鴎外の『伊沢蘭軒』をちくま文庫の全集版で読んだ。同文庫の全集物は鴎外全集に限らず、見開き2頁ごとに注釈がページの左端部に入っている。これが読んでいて少し煩わしかったうえに、この史伝には多数の漢詩が引用されており、そこには注釈でこそないが読み下しがルビとして脇に振られ、これもまた煩わしく感じられた。
だから岩波の『鴎外全集』を持っていればその煩わしさから解放されると思い、その端本を購入しようとしたことがある。実際古本屋でめぐりあった『伊沢蘭軒』の端本(全集第17巻)をめくってみると、たしかに正字旧かな、ルビのほとんどない版面は素晴らしいのだが、いかんせん漢詩が読めない。自らの素養のなさを痛感し、そのまま端本を棚に戻した。
もっとも高島俊男さんが言われるように、漢詩を読み下して日本風に読むのも考えものだから、読めない箇所はそのままに、勢いで漢字を読んで字面から受けるイメージを頭のなかに形成すればいいのだとも思う。いずれにせよ近代文学の注釈は考えものだ。
いま上で言及した高島俊男さんの文庫新刊お言葉ですが…4 広辞苑の神話』*1(文春文庫)でも、「これは賤しきものなるぞ」という一文で文庫本の注釈がこてんぱんにやっつけられている。
槍玉にあげられたのは太宰治の『津軽』(新潮文庫)。この作品に付いている注釈が「劣悪」(原文ママ)だということで、目に余る箇所を一々指摘して糾弾している。
それによればこの注釈は辞書の丸写しであり、また文脈と書かれた時代背景をまったく考慮に入れていない、そもそも『津軽』を読んでいない、と注釈者(東京の某著名大学の国語学国文学教授)の立つ瀬がなくなるまでに手厳しい。しまいには「あたしゃほとんど憤怒を感ずるね」と怒りをあらわにしている。
とここまでで話が終われば、本書『お言葉ですが…』のシリーズもしくは著者の高島俊男さんがいかに「小言幸兵衛」であるかということを例示して実証したものということになるのだが、本書の真価は実にその先にあって、ここでは「これは賤しきものなるぞ」ではその特性がいかんなく発揮されていることを言いたいのだ。
前回『お言葉ですが…3 明治タレント教授』(文春文庫)の感想を書いたとき(旧読前読後2002/12/27条)に末尾で少し触れたが、本シリーズ(の単行本・文庫本)の面白さは、著者と読者との間の“双方向性”にあると言うことができる。英語で(別に英語にしなくてもいいか)いわゆるインタラクティブということ。
すでに連載の本文のなかで、以前掲載された文章に対する読者の指摘・反論などが紹介されることがある。単行本・文庫本になると、それ以後の読者の反響や著者がその後に得た知見などが〔あとからひとこと〕というかたちで、ポイントを落とした活字で付記される。
このなかで、読者の指摘によって連載本文の誤りを訂正したり、また読者からの意見などが紹介される。双方向性とはそういう意味だ。
さて「これは賤しきものなるぞ」の〔あとからひとこと〕の話。この分量がまずすごい。ほとんど連載本文と同じ、いやそれ以上の分量があるかもしれない。というのも、『津軽』の新版では、連載のなかで高島さんが指摘した注釈の杜撰さがほとんど改められているという指摘を読者から受け、それを一つ一つ点検しているからである。
微苦笑を誘われるのは、連載文中で高島さんが指摘したとおりに直っているということ。編集者か、注釈者の関係者が連載を読んで改めさせたということだろう。
話はこれでもまだ終わらない。高島さんは、連載文中に槍玉にあげたのはおかしな語釈のごく一部であり、また、直されたところもまだ変だとなおも食ってかかっているのである。一読者として「もっとやれ、もっとやれ」と煽りたてたい気分になった。
このシリーズも4冊目(4年目)ともなると、高島さんもご自分の連載が双方向的であることを多分に意識されているふしがある。
「父のことば」という一文では、仕事の都合で居所を転々とした父親が使っていた聞き慣れない言い回しを紹介し、それがどこの地方の言葉に由来するのかわからないとさりげなく書く。これはほとんど読者の反響をあてにした物言いだろう。果たして予想どおり読者からは「これは○○地方で使っています」といった教示が多々もたらされる。
それにしてもこの双方向性を見ていると、『週刊文春』とは日本国民の叡智の結集であるものだなあと感嘆してしまう。読者の皆さん、私のように読んで「なるほど」と感心するだけでなく、きちんと行動を起こして高島さんに返事を寄せている。
それもこれも高島さんが連載のなかで読者の指摘に対して丁寧に返答しているからこそ、読者も反応のしがいが出、便りを出しやすい環境が醸成されていったのだろう。著者と読者の相互作用でこうした双方向性が生み出されたのである。
双方向性というところに気をとられすぎてしまった。ほかに面白いエッセイを紹介すれば、外国語表記で「ー」(長音符)を使わない(たとえばボードレール→ボオドレエル)人の系譜を論じ、小沼丹の『福壽草』を称揚した「棒ぎらいの系譜」、小澤書店の本の美しさ(正字という点)から説き起こし、森銑三の『びいどろ障子』に言及して森銑三の言い回しの特徴(可能動詞の使い方)を指摘した「びいどろ障子」、薄田泣菫の『茶話』を論じ、固有名詞などを削ったり匿名にした単行本を底本にした岩波文庫本は駄目で、初出に拠った冨山房百科文庫で読んでこそこのコラムの面白さを味わえると指摘した「茶話のはなし」などが印象に残った。
しかし私の一押しは他にある。一篇のエッセイとして起承転結があって、まるで論理緻密な推理小説を読み終えたときのような爽快感のある「スバルはさざめく」が素晴らしい。問題提起から話が徐々にずれていくと思いきや、結末でぴしゃりと冒頭の問題を解決する筋道が見事である。