書店という神話空間

書店の近代

とうとう“禁断の扉”を開けてしまった。新刊本をネット通販で購入したのである。古本はやむを得ないにしても、カード決済が主たる支払手段である新刊本のネット通販には個人情報の面で不安があった。
もっとも主要な理由はほかにもある。本はなるべく本屋で並んでいるものを目にして買いたい、この一点にほかならない。
東京というこの点では十二分に恵まれた都市に住み、また、本屋に立ち寄ることができないほど忙しいというわけでもない。品切れの不安はあったにせよ、都心の大書店をまめにまわれば手に入れることができた本であるにもかかわらずそうしなかったのは、一に自らの怠慢による。
仙台に住んでいた頃は、一冊の新刊本を求めて、それが見つかるまで町中にある大書店をバイクを駆ってくまなくめぐったものだった。品切れの恐れがある本については、書店の取次を調べ、トーハンを取次にしている本屋に注文して品切れの報が届いたら、日販を取次にしている別の書店に再度注文をしてみるという技まで使っていた。
当時はわれながら執念深いと思いつつこうしたことをしていたのだが、いまこの思い出を多少なりとも美化することを許されれば、十年ほど前までの私は、たしかに書店での本との出会いの物語を生み出していたと言うことができる。
こんなことを思い出したのも、小田光雄さんの『書店の近代―本が輝いていた時代』*1平凡社新書)を読んだからだ。
本書は、「書店の風景の変容を通じて、近代文学史も含んで、ささやかではあるが近代出版業界を表象する試み」である。
江戸時代(近世)の出版流通システムの素描を手始めに、近世のシステムが転換する明治二十年以降の近代的出版流通システムの見取り図を、近代文学史上有名な文学者、書店、事件を手がかりにスケッチするとても面白い本だった。
たとえば文学者とは、書店の丁稚だった田山花袋丸善の客だった尾崎紅葉芥川龍之介梶井基次郎、その丸善の店員だった佐多稲子。書店とは、いまあげた丸善のほか、金港堂・中西屋・南天堂・岡書院・上海内山書店・新宿紀伊国屋書店・京都西川誠光堂など、近代出版文化史に興味がある本好きならば誰でも知っている一癖ある店ばかり。
事件とはたとえば円本ブームである。
書店の風景に着目するということで、新たな魅力を教えられた既読の本があった。ひとつが島崎藤村の『破戒』。第10章「『破戒』のなかの信州の書店」のなかで小田さんは、この作品を、(本の)近代流通システムの「成長とともに全国各地に普及していった書店で、読者が買った一冊の書物をめぐる物語」と規定する。
また関川夏央谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』。漱石を主人公とする第一部、石川啄木を主人公とする第三部の一場面を引用しながら、この大作が書店の風景を効果的に挿入した「本の物語」の側面をもつことを指摘し、「書店が本と出会う場所としてばかりでなく、人との出会いの空間であった」と論じる。
むろん書店における人との出会いといっても、毎度毎度劇的な出会いがあるわけではない。読者と本との出会いは必ずしも書店を必要条件としない。ネット通販だって読者と本は出会うのである。
ネット通販で本を購入することに物語性が皆無であるというわけではないけれども、やはり書店での本との出会いの物語よりは神話性が希薄にならざるを得ず、まして人との出会いの可能性は皆無である。
『「坊っちゃん」の時代』第三部において、白秋の『邪宗門』と自分の詩集を古本屋に売り払うことを諦めた啄木が、たまたま店に来合わせた一高生芥川龍之介に五銭で売り渡す場面に触れて著者は、「本を買うことや売ることがドラマを形成する時代」がそこにあったことを強調する。本屋で本と出会う喜びを再発見させてくれる好著であった。
最後に蛇足。第20章「艶本時代とポルノグラフィ書店」は梅原北明を中心に論じた一章だが、この後半で紫覆面という匿名の人物が昭和八年の上半期に『書物展望』に連載した「近世輸入艶本原書秘史」という文章を取り上げ、当時の洋書店の状況を描いた出版資料として貴重なものであると指摘する。
小田さんは紫覆面氏を著名なフランス文学者のペンネームではないかとするが、これは辰野隆を暗に指しているのだろう。講談社文芸文庫版『忘れ得ぬ人々』収録の年譜を見ると辰野はこのとき45歳と脂の乗りきった年齢にあたる。ポルノ「赤い帽子の女」の作者に擬せられていること(鹿島茂説)といい、辰野隆とは謎に満ちた魅力的な人物だと思わずにはおれない。