小津安二郎のグルメ手帖

小津安二郎 東京グルメ案内

今年は映画監督小津安二郎の生誕百年・没後四十年の節目にあたる年である。出版や映画上映など、これを記念したさまざまな企画の情報が入ってくるようになった。実は私は小津映画を(たぶん)観たことがない。
旧作日本映画に興味を持ちだしたのは最近のことであるから、観た/観ないを云々できるような段階にはないことを承知でいえば、日本映画の名匠といえば黒澤明と並んで取り上げられるのが小津安二郎なのだろう。それを観ていないのだから不思議なものだ。川本三郎さんの影響なのか(いや影響に違いない)、成瀬巳喜男という相対的にマイナーな線からこの趣味世界に入ってしまった。
貴田庄さんの文庫新刊小津安二郎 東京グルメ案内』*1朝日文庫)は、小津安二郎が残した日記や「グルメ手帖」と俗称される飲食店のメモ帳をもとに、小津が好んで通った東京の飲食店を紹介してゆくという趣向の本である。またそれらの食べ物が小津映画のなかでどのように登場するかということにも目配りされているので、食べ物から見る小津映画ガイドともなっている。
登場する食べ物の種類は、とんかつ・鰻・蕎麦・うどん・天ぷら・鳥・すき焼・桜鍋・鮟鱇鍋・寿司・洋食からお菓子のたぐいにいたるまで幅広い。
個人的に名前を聞いたことのある店が多いが、行ったことがある店は片手で数えるほどしかない。小津は「グルメ」と言われるが、やはり私のような一般庶民には手が届かない一流店を贔屓にしている場合が多いのだった。もっとも、小津が通っていた頃は敷居の高くない店だったのが、時の移り変わりとともに一流店になっていったという例がないわけでもない。
本書の典拠のひとつとなった「グルメ手帖」が巻末に全文翻刻されている。店の名前に住所・電話番号・地図、得意料理などのデータが書き込まれたものだが、果たしてこれを「グルメ手帖」と呼んでいいものだろうか。
小津自身はこの手帖に名前を与えていたわけではなく、後世の人たちが資料整理の都合上便宜的に名づけたものだという。
たしかにいまから見ると飲食店の名店に関するデータを書き連ねたという意味で「グルメ」と言われても仕方ないかもしれないが、読んでいると、小津はこの手帖のメモを自身のグルメ的嗜好の覚書としてではなく、映画制作のための取材メモとして残していたのではないかと思えてきたのである。