あのころの未来

あのころの未来

中味にふさわしい本のタイトルを思いついたとき、その本の成功(何をもって成功とみなすのかはおく)は半分以上約束されたと言えるだろう。
読む側にとっても、読んでいる本の中味とタイトルがぴたり一致していれば、さて続きを読もうかとその本を手にするだけでそれからの読書の時間の愉悦は約束されたものになる。最相葉月さんの新著『あのころの未来―星新一の預言』*1(新潮社)はまさに中味とタイトルが一致した面白い本だった。
タイトルは、著者自身「あとがき」で述べているようにSMAPの名曲「夜空ノムコウ」の一節(「あの頃の未来に 僕らは立っているのかなぁ…/すべてが思うほどうまくはいかないみたいだ」)から採ったもの。作詞者スガシカオさんの快諾を得たという。明るい希望が込められた「未来」という語に「あのころ」という言葉がかぶさった瞬間、セピア色の懐かしさが漂う語感を生むから不思議だ。
本書は、現代科学技術・文明の最先端の事象(臓器移植、遺伝子治療、クローン、ネット社会、ロボット、宇宙開発など)を論じるためのひとつの方法として、それらの事象を予見するかのようにショート・ショートのなかで取り上げていた星新一の作品を絡めるというユニークな構想の本である。
もとは『サンデー毎日』連載(原題『星ふるふるさと DIALOGUE WITH SHINICHI HOSHI』)で、一篇が4頁に収まる短い文章が50篇と、星新一のショート・ショート4篇で構成されている。
絶対音感』で知られる最相さんの本を読むのははじめてだった。だから彼女が科学技術方面の著作活動に意欲的に取り組んでいるとは知らなかった。本書のなかで展開されている最相さんによる鋭い科学技術問題批評を読んだことで、この方面に疎かった私の知識はだいぶ補われた。
また引用紹介される星新一作品の内容を知ることで、作品の奥底に秘められた彼のドライな文明批評が浮き彫りにされ、あらためて星新一というSF作家に興味を抱かされたのである。
いま私の手元にある星新一の本はSF作品ではなく、明治の新聞記事を渉猟して面白い記事を切り抜いた『夜明けあと』(新潮文庫)ただ一冊。かつてショートショートを数冊読んだ記憶があるがいま手元にない。
本書を読んで猛烈に星作品を読みたくなってきた。新潮社から全ショートショートを3冊にまとめた愛蔵版が出ているらしいが、値段は三万円と手が出せない。幸い新潮文庫で星作品はまだ現役である。古本でも多く見かける。思い立ったときに集めておくのが得策かもしれない。
とそう考えるいっぽうで、まだ当分星作品は見捨てられないだろうという思いもある。というのも、私は本書によって、星作品の特質というべきものを迂闊ながら初めて知ったからだ。
最相さんによれば、星新一「固有名詞を使わない、性描写は避ける、時代の風俗を描かない」という徹底した方法論をつらぬいて、民話とも見まごう普遍性のある物語を紡いでいったのだという。引用紹介されている星作品を読むとまさにそのとおりで、だからこそ何十年も古びずに読みつがれ、将来もこの流れは消えそうもないと言えるのである。
獅子文六のように、時代の風俗を描ききったことで逆に普遍性を獲得する(あるいは一度流行が去っても再び盛り返す力のある)物語を生み出す作家もいれば、風俗を描かないことで普遍性を得た星新一のような例もある。小説とはなかなか面白い。
ところで星新一ショートショートのなかで描いた未来は、現在の私たちにとってみれば現実でもある。星が想像した「あのころの未来」が未来でなくなっているという科学技術の「進歩」に驚くほかない。「未来」との距離がどんどん狭まっているのではないか。
最相さんは、遺伝子診断についてこんな警鐘を鳴らしている。

自分の遺伝子を知ることは、自分や家族の過去を知ることであると同時に未来を知ることでもある。ヒトゲノムが解読される以前には考えられなかった領域に踏み込んだことは確かであり、未来を知らなかった時代とは異なる想像力が必要だ。医療やプライバシー保護の側面から語られることが多いので気がつきにくいが、遺伝子診断とは未来を今の自分に教える禁断のタイムマシンである。タイムマシンで手に入れた時間で不当な利益を得ることを許してはならない。(「禁断のタイムマシン」)
未来を想像できなくなることのつまらなさを子供に味わわせたくないものだが、さてその未来はどうなることやら見当もつかない。