「男性自身」の縮小再生産

山口瞳「男性自身」傑作選・熟年編

煮詰まったときに頭をほぐすため少しずつひもといていた嵐山光三郎山口瞳「男性自身」傑作選 熟年編』*1新潮文庫)をようやく読み終えた。
このアンソロジーは、新潮文庫で過去に出た『巨人ファン善人説』『素朴な画家の一日』『卑怯者の弁』『木槿の花』『江分利満氏の優雅なサヨナラ』五冊のうちから、嵐山さんが50編を選んだものである。
私は「男性自身」の文庫版を新しいほうから遡って読んでおり、現在は『素朴な画家の一日』まで到達している。だから本書の大半は再読ということになるのだが、最終冊『江分利満氏の優雅なサヨナラ』についてはかなり以前に読んだこともあり(感想は2001/3/22条)、この間山口さんに関する様々な知識が増えたこともあって、死を意識した文章にあらためて接し胸の詰まる思いだった。
総じて本アンソロジーは、山口さんの人柄、好悪が際だつ文章を優先し、また、各時期に山・節目となっている文章(たとえば「卑怯者の弁」「木槿の花」「仔象を連れて」など)を目配りよく収めた好アンソロジーということができる。
いまや「男性自身」は、この集と、今月末に出る重松清編の「中年編」の二冊でしか読めなくなってしまった。新たな山口ファンを獲得する意味ではこの二冊のアンソロジーが刊行される意義は大きい。
しかしながらそのいっぽうで、「男性自身」が限りなく縮小再生産されていることに不安をおぼえないでもない。
1963年から『週刊新潮』に連載が始まり31年間1614回休みなく書き継がれた「男性自身」であるが、単行本になるさいに落とされたものがある(ということを中野朗さんの『変奇館の主人』で知った)。
新潮文庫の文庫版は、さらにその単行本から山口さんご自身がセレクトした選集である。つまり、今回の二冊はアンソロジーのアンソロジーというわけである。抽出を重ねることで「男性自身」の根本思想ともいうべきものが明瞭になったことは評価できるが、逆にこのため「男性自身完全版」の夢が遠ざかってしまったような気がする。
個人的には「日記シリーズ」初文庫収録かと期待していたため、期待はずれという残念な気持ちが強い。「男性自身」の場合、縮小再生産ではなく、漏れなく全文章を収録するという拡大再生産の方向で再刊してほしいと強く希望するものである。