路線の人格

中央線なヒト

「沿線民俗学研究家」三善里沙子さんの『中央線なヒト』*1小学館文庫)を読み終えた。
前著『中央線の呪い』(扶桑社文庫)は未読だが、この二著あたりが中央線ブーム(そんなものがあるとすれば)、あるいは路線ごとの性格付けの動きに火をつけたのだろうか。中央線という路線の特徴、駅中心に広がる町の特徴、そこに住んでいる人々の特徴をおもしろおかしく掘り下げた、なかなかマニアックな一冊だった。まさに“中央線中華思想”だ。
本書の指摘でなるほどと思ったのは、中央線には「人格」があるということ。

中央線は、ほかの電車と比べてよく「嫌い!」という言い方をされる。つまりこの「嫌い」は、電車が云々ではなく、中央線に乗る人々を中心に、中央線自体を人格化した結果なのである。(20頁脚注)
たしかにそのとおりかもしれない。「中央線が云々」という話のなかに出てくる「中央線」という語は、その沿線の町・住んでいる人々も広く含めた人格になっている。
路線ごとの性格付けということでは泉麻人さんの議論もある。本書にも泉さんのお名前が登場するので、三善・泉あたりは共同戦線を張っているのだろう。中央線を皮切りに小田急線や東横線など、路線の人格は他の路線へも波及している。東京の特徴だ。
このことについて、最近目に触れた原武史さんの文章も面白い。「非対称の関係を超えて―東急・東武の相互乗り入れに思う」(『本』6月号*2)のなかで原さんは、先般の半蔵門線開通で、東武線側では相互乗り入れ・渋谷まで直通の横断幕が大々的に張られていたのに対し、東急線側では乗り入れに関する広告をほとんど見かけないという。これなども路線民俗学の恰好のテーマだろう。東武線にお世話になっている私としては、つい東武線に肩入れしてしまう。
三善さんの本に戻って、今ひとつ面白かった指摘。中央線は明治22年に新宿−八王子間にまっすぐ一直線に線路を引いた(直線の長さは北海道室蘭本線に次いで二番目という)あとに沿線の町が開発されていったため、人々の生活は車中心でなく電車中心であるということ。極端にいえば車が入る余地がないという。
たしかに訪れてみると、歩く人本意の町であることに安心感があって、何度でも訪れてみたい気持ちになるのだった。

*1:ISBN:4094183310

*2:のち同著『鉄道ひとつばなし』講談社現代新書ISBN:4061496808)に収録。