理由のわからぬ面白さ

読み終えた感想をひと言でいえば、ずばり「面白い!」。もうひと言付け加えてもよいというのであれば、「でも、なぜ面白いのか理由がわからない」。獅子文六『コーヒーと恋愛(可否道)』(角川文庫)のことである。
主人公は43歳になるテレビドラマ女優の坂井モエ子。8歳年下の舞台画家塔之本勉(通称勉ちゃん)と荻窪のアパートで一緒に暮らしてる(この「暮らしてる」という文体が獅子調)。二人はいわゆる内縁関係だ。
もともと二人は新劇の劇団で出会い意気投合したのだが、モエ子はテレビのホームドラマの脇役としてお茶の間の人気者になりつつあった。半分ヒモのようになっている勉ちゃんにはそれが気になる。
二人にはもう一つの点で強い絆がある。それはモエ子がコーヒーを入れる技術。「彼女のいれたコーヒーは、まったくウマい。色といい、香りといい、絶妙である。そのくせ、彼女は、道具にこらないし、いれ方にも、煩いことをいわない。ほんとに、無雑作である。まず、生まれながらのコーヒーの名手というのであろう」(文庫版6頁)。
いっぽうの勉ちゃんはモエ子の入れたコーヒーで入れ手の精神状態を言い当てることができるほどの「利きコーヒー」の名手なのだった。
物語は、ヒモ生活から抜け出して「生活革命」をしたい勉ちゃんと、居心地のいい結婚生活を手放したくないモエ子の間の葛藤がひとつの軸になる。モエ子がドラマで人気が出てスポンサーがつき、主役に抜擢されたのを期に、勉ちゃんは自分よりずっと若い駆け出しの新劇女優丹野アンナと新生活を始めてしまう。
さてどうするモエ子、というのが流れのひとつ。
いまひとつの軸は、モエ子もメンバーになっている「可否会」の人間模様。可否会とはこよなくコーヒーを愛する人間の集まり、いわばコーヒー同好会である。親から受け継いだ家作で悠々と暮らしている高等遊民の菅貫一を首領に、洋画家の大久保四郎、経済学の大学教授中村恒徳、噺家の春遊亭珍馬とモエ子が名前を連ねる。
彼らは月に一度程度の例会を開き、互いにコーヒーを入れて飲みながらコーヒー談義に花を咲かせる。こんな“コーヒー小説”であるのがまず面白いではないか。それぞれのキャラクターも際だっていてユニークだ。
筋自体は、モエ子・勉ちゃん・アンナの三角関係にテレビ業界・新劇業界の内側をからめ、「可否会」の風変わりなコーヒー談義が色を付けるもの、と単純化できてしまう。そんな小説の何がどう面白いのか、自分でも判断がつかないまま、いつの間にか物語に惹き込まれているのである。
細川忠雄さんによる文庫版解説を読むと、手がかりがないわけではない。たとえば可否会頭領の菅貫一は、コーヒーの入れ方・飲み方を茶道に匹敵するような高尚な作法に仕立て上げ、その精神を高めようとする。それが、本作品の新聞連載時のタイトル「可否道」である。作品にはこうした菅の求道的精神を皮肉った諧謔味があるという。
また、可否会例会に正体を隠してわざとインスタント・コーヒーを出して高い評価を与えさせ、メンバーのディレッタンティズムをおちょくるエピソードには、「この小説のテーマとも申すべき風刺のワサビ」がきいているという。
ことほどさように獅子文六の小説は、会話・文体にただようユーモアと、底に流れる風刺・諧謔精神というように説明されるらしい。言われてみると、先日読んだ『てんやわんや』にしろ今回の『コーヒーと恋愛(可否道)』にしろなるほどそうかと思わされる。でも本当にそう一般化してもいいものなのか、面白さの理由がわからないくせに疑問を持ってしまうのだ。
私にとっては「理由のわからない面白さ」。ひとまず獅子文六作品をこのように受け止めてみたい。たぶんほかの作品も同様の味わいを持っているに違いない。追い続けていく価値のある作家であるとあらためて認識した。